その野蛮人が尋ねる、「誰が、そして何が「至高なる霊」(The Supreme Spirit)なのか?」彼に言いなさい、「あなた方の最も偉大なる神より一層上なる「存在」(Being)として考えられよ。もしそれが貴方の理解に役立つのであるならば、「至高なる霊」(The Supreme Spirit)を貴方自身のように「彼の姿」(His image)を反映させる「神」(God)として考えられよ。「彼の」(His)力をもって「天地」(Heaven and Earth)を満たすのが「神」であり、そして「彼の」(His)力が元素の力の中に表現されている。「神」(He)は今や始まりのようであり、そして終わりの後にも変わりはないであろう。「神」(He)は天上の種の周囲に地上的な構造物を作り上げる事によって人間を形作り、そしてその中に「神」(he)は生命の蒸気を吹き込んだ。「神」(He)は「天上」(Heavens)の秩序を維持し、海の中の陸地を安定させた。「神の」(His)息は生命の息であり、そして「神」(He)は水を落下させ、緑樹が生えるようにした。」その野蛮人に言いなさい、「貴方の周囲を見回し、そして鏡の中のように「神」(God)が反映しているのを見られよ。如何なる死すべき定めたる人間も「神を」(Him)直接見たことがある者はいない。しかし、「神の」(His)反映は免除として見る事が出来る。」
その野蛮人は自分で見る事のできる神を探し求めるが、神の非常なる偉大さと人間の小ささのために、彼に理解させたりさせようとしたりする事は不可能である。次の太陽が強く輝く時分にその野蛮人を連れ出し、彼にその太陽を見つめる事が出来るかを尋ねてみよ。彼は、そうする事は自分の力を超える行為であると白状することを強いられるであろう。そして彼に尋ねよ、「見よ、その眩しさのため、「ハウラ」(Haula)注1が自分自身を隠す盾を見る事さえ貴方の力を超えている。が、この偉大なる神でさえほのかな、「至高なる霊」(The Supreme Spirit)からの力を運ぶ光線を具現化する遠く離れた反映に過ぎない。それならば、どうやって貴方はその力の源泉そのものを見る事を望む事が出来ようか?」
その野蛮人たちはまだ子供同然であり、こういった事は簡単に彼らの理解へと入り込んでいかない。そのため、子供のように、単純な話によって彼らを教え、徐々に光注2へと連れて行く事が最善である。「至高なる霊」(The Supreme Spirit)への信仰注3は、たいして重要ではない。無知なる者による「神の」(His)性質への詮索は無益な愚行である。人々が自分自身の魂を信じる事の方が人々にとってずっとより重要な事である。人の不死性と神への類似性への信仰無しでどんな種類の神を信仰した所で、それは何の目的も達しない。もし神がその存在より恩恵を引き出す人間無しで存在したのであるならば、人間はその神を無視する方が良かったであろう。これは、しかしながら、事実ではない。人間は自分自身の恩恵の為に「至高なる霊」(The Supreme Spirit)との合一と霊的交わりを求めるのである。人間は自分自身よりも偉大なる何かに基づく運命を有しているのであり、それ故に彼はその何かに対する必要を有するのである。
「至高なる存在」(The Supreme Being)の実在は、何か受け入れたり、信仰したり、そして無視したりするだけのものではない。信仰、それだけが、それ自体の目的とはなり得ない。というのも、目的のないものは何も存在しないからである。「至高なる存在」(Supreme Being)への単純な信仰は十分ではなく、我々はその「存在」(Being)の目的や意図を知らなければならない。もし我々がこの「至高なる存在」(Supreme ZBeing)が我々を創造したと信じるのであるならば、それがどのようにもたらされたのであれ、我々は我々の創造の背後にある目的を発見する事を希求しなければならない。もし我々がある目的に従事する為に、我々が為すべきと意図された事を行う為に作られたのであるならば、我々はそれを為さねばならないし、さもなくば我々の「造物主」(Creator)の不興を買う事になる。陶工は壺をその目的にとって使用不可な状態で放置するであろうか?あるいは鍛冶屋は未加工の金属を放置するであろうか?それが意図された目的にかなうものだけが保たれて大事にされるのである。
それ故に、兄弟たる我々は、「至高なる存在」(Supreme Being)を信仰するだけを教えられたのではなく、我々の「神」(Him)に対する類似性についても教えられたのである。「至高なる霊」(The Supreme Spirit)は我々の知力の範囲を超越する他人なのではなく、「至高なる霊」(The Supreme Spirit)の力は我々の肉体のあらゆる性質を活発にするのである。
もし我々に野蛮人たちの間で困難があるとすれば、ここでの困難は小さなものではない。我々の有する「真実」(Truth)は、(野蛮人たちにとって)口に合わないばかりでなく、また消化困難なものであるようだ。人々は、それがより効果が弱く体を維持するものであるにも関わらず、より味の良い食物を求め、そして死んだ(野蛮人たちの)兄弟たちの代わりとなる者はほとんどいない。我々は、水と蜂蜜で希釈された酒として「真実」(Truth)を説明したならば、より良い仕事をすることが出来たであろうか?
野蛮人の王の脅威は、それについてあなた方が忠告される事案である。もし貴方が死か我々の法を犯す事の二者択一に脅かされるのであるならば、貴方はそれを理由があって、そして良心の束縛を受けてそれらを犯すのである。しかしもし、貴方が自分が有するものの全てが善であり真実であるという事を否認する事、または我々が神聖であるとしている全ての事を裏切る事を要求されるのであるならば、貴方は自分の魂のために死を受け入れなければならない。貴方はこれらの事を後にやって来る「アバロン」(Abalon)の「クイン」(Kuin)によって知らされるであろう。なので、貴方が問う事についてのみ答える事にする。
野蛮人たちの為には、「至高なる霊」(The Supreme Spirit)を「神、名も無き神」(God, The God without a Name)と呼ぶのが多分最も相応しい。これはいくつかの困難さを解決するであろう。そして、もし野蛮人たちが、「神」(Him)を名前をつけている事を理由として自分たちがより優れていると考えるのであるならば、そのようにさせて置き、自分自身の心を穏やかに保って置く事だ。
野蛮人たちに告げよ、「人間の魂がその肉体を満たしているように、「神」(God)もまた「神の」(His)圏を満たしているのである。魂が肉体を取り囲みそれを内包するように、「神」(God)もまた自分の創造物を取り囲み、内包しているのである。魂は見るがそれが見られる事が出来ないように、「神」(God)もまた見るが、見られることはない。魂が感じるように、「神」(God)もまた感じる。魂が肉体の栄養状態を監督するように、「神」(God)もまた「神の」(His)住処全体に活力を与えるのである。魂が人間の肉体内部の見つける事が出来ない場所を占めるように、「神」(God)の所在地も計り知れない。如何なる者も魂の座を知ることは出来ず、そして如何なる者も「神」(God)の座を知ることは出来ない。」
野蛮人たちは「神」(God)の偶像を作成し、「神」(Him)をより理解可能なようにする。我々は自分たちの想像の中で自分たちの似姿として「神」(Him)の偶像を作成すれば、より良いであろうか?多分我々が「神」(Him)をそのように信じるからというのではなく、「神」(Him)をより理解可能とするために。
人間の神に対する理解が進むにつれて、「神」(God)もまた引き下がっていく。大昔から人間はより良く「神」(God)を理解するようになろうとしてきたにも関わらず、「神」(He)は常に同じ距離を離れて存在し続けるように。「至高なる霊」(The Supreme Spirit)の光の中に住む我々は、(神の)理解へとより近づいてきたが、それは我々がより良い人間であるからというわけでなく、我々がその人生を(神の)探求へと捧げてきたからである。もしある者が十分に注意深くそして思慮深く探求するのであるならば、その者はだれであっも自分が探求する事を何でも見つけ出すに違いない。
この手紙の残りの部分は欠落しているが、小さな復元された小片では建物について取り扱っていて、「ガルヘダ」(Galheda)について言及している。
他の何処かに、ガルヘダがそれを書き直したと述べられている。
注1:文脈から太陽のことであろう。野蛮人の太陽に対する呼称か。
注2:原語は"hght"。これは文脈からして"light"の誤植であろう。
注3:原語は"behef"。これは文脈からして"belief"の誤植であろう。
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