二十七度目の年、学識ある男である「エモス」(Emos)がやってきて、また彼と共に我々の内の一人であった「ザドック」(Zadok)がやってきた。「モス」(Mosu),「ションセル」(Shonthel)の息子もまたやってきて、そしてその他の者たちが四隻の大きな船に乗ってやってきた。「キータ」(Keeta)は少し離れた船できた。
彼らは歓迎され、そしてキータは学びの場を開設し、そして数多の者たちがやってきて彼の前に座った。キータが死んだ時、彼の教え子たちは言った。「我々は、我々の先生の知識を記録して、それが記録に残る事が出来、失われる事が無いようにしよう。」
キータの弟子であり、彼によって祝福され、そして水で清められた我々は、一つとなるであろう。この日から、我々は彼が我々に与えた名前、「バルサ ヘドゥシャ ヘセド」('Bartha Hedsha Hethed')、その言葉の意味は失われたが、その名前で自分たちを呼ぶであろう。
「神」(God)と善は一つであり似たようなものである。「神」は人ではないが、「至高なる霊」(Supreme Spirit)である。「彼」(He)は「地上」(Earth)を、それが男と女を生み出すように作り、そして彼らは、森であってさえ全てが快適である遠い地で共に生活した。女は男をそそのかし、彼が「神」の一部である何かを食べて、そして男は罰せられた。というのも、彼は女に対して責任を有するからである。
子供たちがその世代で生まれていき、「地上」が満たされるまで増えていった。彼らは石の街を築き、水が流れ出ていくように水路を掘り、そして湖を作った。彼らは巧妙な石材、木材、象牙の加工者であった。
彼らは耐火石材から道具を作成し、また数多の色調の陶器を作成した。彼らは日光の寺院を建て、そして多数の柱の間で崇拝したが、その寺院の中にはより偉大なる事が知られていた内部の寺院があった。
「銅の国」(Land of Copper)では、それは「黄金の光の国」(Land of The Golden Light)であったのだが、12人のうちの一人は僧侶であった。彼らの世話をする尼僧たちがいて、また寺院内の神聖なる原理を見守っていた。僧侶たちの頭飾りは赤色で、彼らは黒い羽毛と外套を身に着けていた。彼らは黄金の飾り輪と銀の数珠を持っており、彼らの腰には螺旋形の黒石があった。
その街の内部に住む者たちとその境界の向こうに住む者たちの間で戦争が起こった。その街の内部に住む者たちはあらゆる種類の作物を育て、そして自分たちの手の労働によって自分たちの衣服を賄っていた。その街の外部に住むものたちは、毛むくじゃらの狩人で、野生動物の獣皮を着用していた。
その街の敷地の外部には、神聖なる山があって、そこに僧侶たちが住んでいた。その街の人々は彼らに香草や果物をパンやワインと共に持ってきた。その街の外部の者たちは羊や山羊そして狩った獣をその僧侶たちに持ってきた。
その街の人々は都会人のように富を愛し、力と狩猟によって自分の食物を得る者たちよりも気前が良くなかった。その街の人々は自分たちの(支払うべき)税の一部を秘匿し、僧侶たちが彼らの思いやりがより少ないと見る事を引き起こした。
太陽の偉大なる日がやってきて、「高僧」(High Priest)が彼の実りの祝福を与える時、彼はそれを街の居住者たちに与えず、狩人や牧夫にのみその祝福を与えた。その夜、その祝福を受けた者たちが山腹で喜んでいた時、都市の居住者たちは彼らを襲撃して多数の者たちを殺した。これが多数の人々が死んだ大戦争の原因であったのである。
人々はその性質が彼らに仕向けるような事を他の人にするが、彼らはまた女子供たちを荒廃させる。悪は増大して巨大になり、その国がもはやそれを抱える事が出来なくなり、それが放逐されて綺麗にしなければならないまでに至る。それ故に、意趣返しの竜が天上の深淵から呼び出されて、その竜は炎と雷でその国を打ち付けた。全国土はその煙たい息で満たされ、人々は窒息して死に至った。
その国は街と山の間で引き裂かれ、海の水がそこにうねり込んで来たので、その街は滅ぼされた。山の谷々は死人や死んだ動物や木々で埋め尽くされた。
「高僧」は七人の他の僧侶であった者たちと共に生き延びた。彼は、110人の男とその妻子らと共に、残った僧侶たちを「ラベス」(Labeth)へと引き連れていった。ラベスは「広大な平野」(Wide Plain)の端にある高い崖の間にある土地であった。
ここで、その僧侶たちは彼らの知恵や知識を保持し、子供たちに引き渡していこうとしたが、それは歪められて誤解されたものとなった。彼らは、生者を導くことが出来る、肉体から放射される力を理解する事が無かった。我々でさえこれらの事を明白に理解する事は無い。
「銅の国」(Land of Copper)からやってきたその僧侶たちは、自分の意思で肉体から自分の魂を分離させる事が出来、望むように戻ってくる事が出来た。魂が自分の体に戻ってきて、無知な人たちが死んだように見える肉体に生命が戻ってくるのを見た時、彼らは十分長く肉体を維持すれば死者にも同じことが起こるであろうと考えた。この迷信は我々の間にさえ残っている。
後に、彼らがラベンを去った時、人々は、もし死体を完全に残るように維持するならば、魂は「清算の圏」(Sphere of Accounting)注1へと入る事が無いと信じた。そのような事は彼らの邪悪さの知識と彼らの運命への恐れであり、彼らは肉体がバラバラになって腐敗に入る事を防ぐためにあらゆる技法を使った。彼らは、魂が「地上」(Earth)の上の圏に入るまで、それは柔軟な状態であり、邪悪さや無知の生命の病的影響のあるものに反発するように振舞う事が出来ると信じたのかもしれない。
後に、「真実」(Truth)の光がほとんど見られなくなるまで、まだ真実の光がうす暗く光っているが、常に多数の光のうちの少数であり、そして多数の光によってそれら(少数の光)は覆い隠されてしまった。少数の者たちの光は、注意と配慮をもって保護された貴重なものであった。人々は多数の光を知っていたが、少数の光は知られることなく、その秘宝は安全であった。神々は増えたが、彼らの内に「真実」を探求するものたちは、もし彼らが誠実で勤勉なる探求者であったならば、常にそれを見出す事が出来た。その当時は今と同じようであった。
一つの国がかつて国王の血族から作られ、そしてそれは大きく見事になった。「真実」(Truth)の光はこの国に開示され、そしてその国は光の中でその栄華を享有したが、数世代の内に、その国は、その光は伝統によって与えられているものであると受け入れた。それで、その国はその光の保持に無頓着となり、それは貧相に建てられ、かつ疎かにされた祠堂に保管された。不運な風が吹きつけて、そしてその光は吹き飛ばされてしまった。
もう一つの国がたくましい牧夫の血族から起こり、彼らの間に「真実」(Truth)の光が灯った。彼らもまた、その光を数世代享有し、それを黄金の建屋の中で大事に保管した。すると、一人の力のある王がその黄金の建屋を所望し、数多の武装した男たちと共にやって来て、保管者をその光と共に追い出した。保管者はその光の為に葦の建屋を建てたが、その建屋は非常に質素なものだったので、彼らはもはやその光を厳密に保護する事に悩まされる事が無かった。すると、ある酔っ払いたちがやって来て、壊れた操舵オールの船のようによろめいて、その葦の建屋は張り倒されてしまった。その中の光は全てを焼き尽くす炎へなだれこみ、葦の建屋だけでなく黄金の建屋もまた台無しにされた。なおももう一つの国が奴隷たちから作られて、彼らは全ての人々が有する「永遠なる炎」(Eternal Flame)から明かりを灯した。彼らはその光の上をたれ布で覆わなかったので、彼らは盲目となり、そしてその光が唯一の光であると考えた。彼らは尊大になり、自分たち自身を「神に選ばれし者たち」(The Chosen of God)と呼んだ。しかし、「彼」(He)以外を選択したのは、彼らであった。彼らの神は「地上」の上の神であったけれども、彼らの神は、「人間の神」(God of Mankind)ではなく、そして彼らの神は「至高なる霊」(The Supreme Spirit)に仕えるが、「至高なる霊」そのものではない。
それで、「光の子ら」(Children of Light)は光を探求する人間たちの大多数は火鉢で遊ぶ子供のようなものであると推察した。長らく暗闇に閉じ込められた人は太陽光によって目がくらむように、例えそれがどっさりと覆われていたとしても、殆どの人々は「真実の光」(Light of Truth)の面前に連れ出された時、同じ様に盲目となってしまう。ただ緩やかに人々は暗闇から光へと連れ出す事が出来る。
が、「光の子ら」でさえ彼らの内で分裂するようになり、一つの機関が二つに分裂した。「東方」(Eastern)の機関は、自分たちが書かれた記録の真の保管者であると主張するが、現在我々はホスキアの書記たちによって複製されたもの以前にさえ書かれた書物を保有している。我々は「より小さな光の子ら」(Children of the Lesser Light)ではなく、我々は「隠された光」(Hidden Light)の秘密を知っている。寒冷な北方の地にいる我々だけが生き残るであろう。というのもアモスは「我々の運命はずっと寒々とした国に存在し、そこでは我々の種は奇妙な土壌へと植えられるであろう。人々の願望の温かさによって活気付けられて発展するまで、それは未墾の地の奥まった所に存在するであろう。」と書かなかったであろうか。
キータは、この事は、先の方に存在するに違いない我々の運命の日まで、我々はその光を開示したり広めたりする事を探求すべきではないことを意味していると教えた。それ故に、我々はその力を増すに違いない、さもなくば小麦の収穫物の間にビーズの様にさまよう事になるに違いないと主張する者たちは誤っているのである。彼らは我々の運命に反して話しているのであり、それは書かれていて、取り換えのきかないものである。
我々は「光」(Light)の最初の我々の指導者について何も知らない。ただ、彼は槍術に通暁した戦士僧であり、そして彼は戦争の時代に生きていたという事だけが知られている。彼の名前は記録されていない。というのも、彼は次のように言ったからである。「私は収穫物が集積される倉庫に過ぎない。その中の良い穀粒は数多の圃場からやってきて、数多の人々の労働によって生産されている。もし私がこの全てが私自身の生育によるものであると言ったのであるならば、私は嘘をついたことになる。それ故に、人々が私に対して行き届いていない偉大さを付与する事が出来ないように、私は自分自身を匿名とし、そして人々が望むように見れるようにするのだ。」
当時、「光の子ら」(Children of Light)は探し出されて迫害されていて、誰ももう一人の人をその名前で知らなかった。というのも、拷問官の道具が彼らを待ち受けていたからである。多数の者たちが足を上にして河岸そばに吊るされた。というのも、統治者が「これらの者たちは彼らの本を上下逆さまに読んだのだ。」と言ったからである。女たちについては、彼女らは慰安の館にゆだねられ、多数の者たちが地位剥奪の状態で死んだ。
我々は、最初の「光の指導者」(Leader of Light)がエジプトの名門出身であり、彼の名前が大理石柱に刻まれていた事を知っている。彼は、「真実」(Truth)の灯を帯びていた為に降格され、そして彼の名はエジプトの記録から除去された。彼は軍を起こしたが、それはまるで山羊が野生の牡牛に攻撃するようなもので、彼はエチオピア付近に在る大沼沢地で殺された。
彼はあらゆる人に知られている本を著し、また選ばれし人たちにのみ知られている「典礼と儀式の書」(Book of Rites and Ceremonies)を著した。彼は、我々だけが知っている「獅子の壺」(Lion Urns)の中にある三つの書物、あるいは「秘密の方法の書」(Book of The Secret Way)を書かなかった。彼は、「光の子らの内に書かれた言葉についての子供向けの指導書」(Book of Instruction For The Children of The Written Word Within The Children of Light)を著したかもしれない。その本を維持する方法は世代から世代へと教えられてきた。それらの本は我々の基礎であり、我々の盾そして我々の剣である。それらは我々にとっての約束であり、我々の希望、我々の手引き、そして我々の防備である。
現在、我々の父たちやその父たちの頃に彼らよりも前の世代におけるのと同様、人々は我々の言葉を盗み、我々の炎から彼らの明かりを灯している。これはそのようであるかもしれない。が、我々はそれがどこで生育しようとも知恵の花から種子を集めてきたのだし、そしてそれを我々自身の庭に植えたのだ。それならば、我々自身が取ってきたものを他の人に拒否する事が出来ようか?如何なる者も「真実」(Truth)を作り出す事は出来ず、もし彼らが探求するならば多くの人たちがそれを見出す事が出来ると書かれていなかったであろうか?それ故に、「真実」(Truth)は、例え最もそれを踏みつける者であっても、あらゆる人の財産なのではなかろうか?というのも、「真実」というものは気持ちの良い一口などではないからである。
それにもかかわらず、我々は「真実」を見出したならば、それを保持し、自分自身たちの為に確保してもよいという事もまた真実である。もし人が未精錬の黄金を求めてそれを見出すならば、彼はそれを作り出したのではないが、それでもそれは依然彼のものである。「黄金は終生の宝であるが、「真実」は永遠の宝である。黄金は肉体を養う事が出来るが、それは魂を汚染するかもしれない。」ともまた書かれていないであろうか?
黄金と知恵、この地ではどちらを人々は最も大事にするであろうか?それは、人々の心の中で確保出来る宝ではなく、自分の手に持つ事が出来る地上的な物ではなかろうか?人々がその手や心で保持するものは、既に「運命の天秤」(Scales of Fate)に掛けられており、そして我々の運命はそれに応じて定められているのである。光を求めて非常に遠くへと出向きそしてその先へと進まないこの地の多くの人たちは、これは彼らが求めるものではないと断言し、彼らが所有しているものを廃棄して戻ってくる。しかし、もし人が黄金を求めて銀を見出すのであるならば、彼はそれを投げ捨てるであろうか?全くパンが無いよりも、半分のパンがある方が良い。
もし黄金が銅と同じ程度豊富であるならば、それは銀よりも少ない価値となっていたであろう。獲得する事が困難なものだけに価値があるのであり、そして「地上」(Earth)の境界を超越して探求しなければならない「永遠なる真実」(Eternal Truth)よりも発見が困難なものは何であろうか?ただ「永遠なる真実」へと向かう長い道の始まりだけがここにあり、そしてこの始めこそ貴方が探求しなければならないものである。あらゆる旅にはその始まりと終わりがあり、貴方はご自分の道をただ一方向にのみ進むことが出来る。もし貴方が落胆するのであるならば、道の始めを見出すだけに必要な知識によって元気づけられなさい。そして、それを見つけたのであるならば、貴方が辿るあらゆる段階を正しい方向へと運びなさい。その旅は長く、そしてその道は荒く石でゴツゴツしているが、最初の立ち寄り地に着く前に後戻りしてはならない。そこで、貴方は新しい力と刺激を獲得するであろう。
我々の光は我々の発祥の地にて灯された。多くの本が書かれて四つの場所に保管され、我々は実際「書かれた言葉の子ら」(Children of The Written Word)である。書記や朗読者、役人や保管者がいた。使用人や方庭で仕える者たちがいた。
異邦人たちが我々の発祥の地へとやって来て、より受け入れられやすい我々とは異なった慣行を持ち込んだ。彼らはより簡単な道を約束し、欺瞞的な驚異といった無知な者たちへと投げかける在り来たりの餌を見せつけた。彼らの手は我々に対しておびただしく、我々は単純で地上的な衣で盛装した「真実」を除いて何を見せることが出来ようか?王女でさえ自分自身の慣習より離反し、そして劣った神々たちの双子の司祭たちは世俗的となり堕落した。秘儀参入の危険を被る準備の出来ている者たちはほとんどいなくなり、規定された質素な生活を受け入れる準備が出来ている者たちは最早いなかった。霊的な不毛さが広がったので、邪悪な慣行が、「神聖なる秘密」(Sacred Mysteries)が立ち退いた場所を埋めるように忍び込んだ。光の本体へと受け入れ可能な候補者は、次第に数少なくなっていった。
名前の通り、「光の子ら」(Children of Light)は古い文字で書かれており、これはまた「書かれた言葉の子ら」(Children of The Written Word)とも読むことが出来、そしてこれは真実である。我々だけが我々の秘密をこのように保持する事が出来る。「光の子ら」は、彼らの発祥の地にある祭壇をなげうつ事によって運命づけられた道を辿り、そして多数の人が一つの食卓で食事をする異邦人たちに混じって住むようになった。我々は彼らの書物に何が降りかかったのかを知らない。というのも、我々が有するものは書き直されたものであるからである。我々は、「書かれた言葉の子ら」が散り散りになった後北方へと向かったのを知っている。しかし、彼らの旅がどのようなものであったかについては、我々は知らない。
我々は「ローサン」(Lothan)と「カベル カイ」(Kabel Kai)、「地上」(Earth)の端を航海して回った建築デザイナーについて知っている。彼らと共に「レイレブ」(Raileb)、隠された神秘を知っていた書記官がいた。彼らは「キンディア」(Kindia)にあった記録を収集し、その記録が野蛮人たちの間にある方が、それを破壊しようとする者たちの間にあるよりも安全であると信じて、その記録を海の長旅で運んだ。もしその記録が野蛮人によって破壊されるのであるならば、それは無知によって為されるものであり、邪悪な知識によって為されるものではない。多くの書物が無知な者たちの目に開かれたままにされて、破壊されてきた。
彼らは、「霧の国」(Land of Mists)から離れた所にある「霞んだ海」(Hazy Sea)の傍にある「悲しみの港」(Harbour of Sorrow)へと到着した。そこでは巨木が生育し、より小さな木はその上にあり、コケがドアカーテンのようにそこから垂れ下がっていた。そこは大浅海「ホーヒッジの小島の南」(South of the Isle of Hawhige)と「海道の北」(North of the Sea Pass)の近くに位置していた。緑色真珠がそこにはある。
数多くの者たちが「悲しみの港」で死んだ。というのも、そこはその上に呪いがかかった場所であったからであり、悪性の病気を引き起こした。「炎の子ら」(Sons of Fire)が「ホスキア」(Hoskiah)と共にやって来て彼らを救い、そして彼らはこの地へとやって来て街を建設した。「ラブラン」(Labrun)、「コレブ」(Koreb)の子が統治者であった。
注1:何を言っているかというと、人は死後、その行いの全てが詳らかにされて、その善悪を計量されることになる。一種の裁判だ。それが行われるのが"Shpere of Accounting"(清算の圏)。その結果に応じて、各々が行くべき世界へと進むことになる。要するに、天国へ行くか、地獄へと行くかという事。心の中にどのような隠し事をしてあっても、それは人の魂に永久に刻み付けられ、この裁きの時点でそれは衆人に暴露されることになる。心して生きていくことだ。
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