我々は、その父祖が多くの世代に渡ってその国にいた「ユテノ」(Uteno)の息子らと共に避難していた。というのも、彼らは「ファラオ ナフォヒア」(Pharaoh Nafohia)の時代にエジプトからやって来たからである。そこ国境地域では、我々は「カセリム」(Kathelim)の上の洞窟に住んでいた。我々には本も所有物も無かったが、我々は勤勉であり、その地を実り豊かなものとするために働いた。我々は自分たち自身が「光の兄弟たち」(Brothers in Light)であると知っていたが、他の者たちは我々を「光の子ら」(Children of Light)と呼び、同時に我々は今日までそのように呼ばれている。
ここは良く肥沃な土地で、小麦や大麦が百倍に増える、小川が流れる広い土地だ。ここではイチジクやザクロが繁茂し、そしてオリーブの果樹園やブドウ園の地である。全ての生活の必要は溢れるほどの収穫物で賄われる。この場所は羊や牛が不安無く増える地で、飢饉の手鎌が決して刈り取る事が無い土地だ。この場所は容易い探索でさえ銅の原料で報われるような所であるが、人のいない土地ではない。
我々はこの地で単独ではなく、そのやり方が我々のやり方と異なる人々の間で生活しなければならない。彼らには多数の名前を持つ神々があり、そして今なお海の傍の者たちは彼らの間で抗争している。というのも、ある者は「神」(God)は「マムラ」(Mamrah)と呼ばれると言い、他の者たちは神は「アネ」(Aneh)と呼ばれると言う。我々の周囲ぐるりと人々は言い争い、そして大地の賜物から彼らの間の抗争が生じる。ほとんど努力する事無しに生計を立てているので、彼らには議論と抗争の為の十分な時間がある。我々は、これらの人々の為に、その四つの柱が「愛」(Love)、「熟慮」(Consideration)、「正義」(Justicde)、そして「真実」(Truth)である平和の法廷を築き上げなければならない。
我々の父祖たちの土地そして我々の遺産は我々から永遠に失われてきた。父祖たちの家は砂に帰し、そして彼らが崇拝していた祭壇は投げ倒されてきた。彼らの神殿は破壊され、そして実践されていた崇拝の形式は最早知られていない。かつて歌われた歌は今や風に混じり、そして歌い手たちの声は静まり返っている。かつて崇められた知恵は去り、光明を投ずる炎は最早燃えることなく、そして灯火は塵の間に壊れて横たわっている。崇められた書物が火をつける為に使われて来て、そして聖なる容器は空虚な飾り物となった。我々の父祖たちによって神聖なるものと掲げられた真の名前は今や汚されて邪悪なことを表現する為に掲げられている。我々の兄弟であった者たちは売られて、その指導者は殺された。我々の妻であった者たちは暴行されて、奴隷へと貶められた。それ故に、兄弟たちよ、これらの事の記憶は脇へやって忘れる時なのだ。
悲しみの為に我々にはどんな理由があるのか?我々は豊かな土地にあり、我々には未来への希望と揺るがし得ない信仰がある。他の全てよりもずっと良い事に、我々は、我々と共に往古の「通信の入口」(Portal of Communication)への鍵を持っている。我々の記憶は書物と先の時代の法規命令を置き換えねばならぬ。それ故に、我々の天恵に対して感謝し、そして骨を折って「真実」(Truth)の灯火がいつか再び灯るところの情熱を心に留めよう。
過ぎ去った日々には、貴方には貴方を導く指導者があったが、彼らの前には、貴方の知らないより偉大なる指導者たちがいた。彼らの言葉の示唆は決して失われてはならない何かであり、いつまでも保たなければならない。我々は重い荷物と共に遠くまで旅して来た人のようなものに違いない。彼は休憩し、彼にはまだ長い道のりがある事を知っているので、彼が運ぶ物の間で何を捨てる事が出来るかを見出そうとする。貴方が行わなければならない選択は間もなく為されなければならない。というのも、我々の父に残された年月は豊富なわけではないからである。
我々は男性たちが共に生きることが出来、そして彼らが女性たちとの交わりを楽しむことが出来る共同体を確立しなければならない。人々はいつも協力した活動から利益を得るが、それは必要な規定と不可分である。果たされる規定が、如何なる者も自分に果たされる束縛によって憤りを感じてはならない事となるようにせよ。果たされる唯一の法令や規定が人間の性質や霊的かつ道徳的価値に基づくものとなるようにせよ。
我々は、他者の対等な権利を侵害する事が無い限り、あらゆる男と女の為に活動の自由を保証しようとしなければならない。我々は、多数の便益の為に働かなければならないが、そうすることによって最も良く貢献した者たちへの報奨の支給を見落としてはならない。その報奨は、あらゆる点において最善の者へ与えられるのであり、最悪の者に与えられるのではない。我々は、良い人生には報奨が与えられて悪い人生は罰せられる事を理解しなければならない。我々は、霊的なものに対して最も大きな価値を置かなければならないし、如何なる者も過度に金持ちであったり、過度に貧乏であったりしてはならない。
我々は病気にかかった者たちや助けの無い者たち、年寄りたちや法的能力が無い者たちを養わなければならない。我々は家族の健全さを保証しなければならない。第一の目的は霊的な目標でなければならないし、それは全ての人々に対して唯一の正しい目的である。その後で、全ての教育や法律を、あらゆる生命ある存在の間での益々調和的な関係へと向けるべきである。子供のしつけは、その目的として良く均整の取れた男らしさや女らしさの獲得を有しなければならない。我々は男たちを気高く、そして全ての狭量さの上へとしなければならない。彼らは高潔で、そしてその男らしさの内に喜ばなければならない。彼らは如何なる試練にも耐えうる勇気と胆力を有しなければならない。というのも、それらは数多く存在するであろうから。彼らは、如何なる不運や災難も揺るがす事のない自己管理と冷静さをもって抑圧や迫害に耐える覚悟をしなければならない。彼らはまた、幸運や豊富さが自分たちを弱くすることが無いような男たちでなければならい。
我々は男たちに決断を早く、そして判断に慎重となるよう教えなければならない。何故ならば、数において、我々は砂漠中の二粒の砂のようであり、我々は入念に回心を求めなければならないからだ。我々は全ての人々の目の前に導きの光とならなければならず、力よりもむしろ正直な労働の道に沿って彼らを導かなければならない。我々は、「私自身の幸福が最初に見出されないのであるならば、他の誰もがそうであろう。」と常に発言する人がいない様に、男たちに他者に対する彼らの責務を教えなければならない。
我々は、相応しい改宗者を探し出して受け入れなければならないし、そして彼らは特に我々にとって貴重な存在となならなければならない。我々は、彼らが彼らの中の善良さは彼ら自身の中で発展させることが出来るという我々の信仰を受け入れたからではなく、彼らが自発的に喜んで我々特有の大いなる責務や義務を引き受けるという理由で、彼らに高い関心を持って彼らを抱えなければならない。我々はいつも組織化された「真実」(Truth)の探究に携わる兄弟関係を維持しなければならない。我々は、我々が述べる教えはどこでも、そして全ての人々の間で、善の規範として正しい事を保証しなければならない。もし兄弟が力を持ったのであるならば、彼は力において自慢してはならない。もし賢くなったのであるならば、知恵において、もし金持ちになったのであるならば、富において自慢をしてはならない。もし兄弟が何かにおいて自慢しなければならないのであるならば、事実において彼はいつも人々の最高なる者であるという事にしておくこと。これによって、地上的な闘争における勝利者を意味するのではなく、目的や人類の善良に最も良く仕える者を意味することになる。
我々は、今やその人たちは居ないのだが、人々が我々の言葉を話す場所に隠れ家を見出した。我々の父祖たちの地は我々を拒むので、我々は別の地を求めなければならない。というのも、国の無い人は如何なる孤児よりもより重く苦しめられるからだ。エジプトは偉大さへと運命づけられた国であった。その人々は他の全ての人々を「偉大なる光」(Great Light)へと導いてくるべきであった。エジプトは、権力と地位を委ねられた者たちが卑しむべき者たちであることが証明されたので、その定めにおいて失敗した。その王は、善良と霊感に捧げられた家族を養うべきであったのだが、人間たちの偏愛を満足させるために彼らの信頼を裏切った。神性への指導者は誤り導かれ、俗心の砂漠のなかに陥り、そして彼らに従った者たちは裏切られた。司祭職は、奉仕と質素な生活ではなく安逸で豊富な生活を提案した時に腐敗した。人間の理想は非の打ち所がなかったが、人間自身はそれに値しなかった。我々は理想を変更する必要はないが、それを獲得するには我々は人々を変えなければならない。エジプトの聖なる教えは、長年の宝物を秘めているのだが、他の如何なる物も保護されてきたことが無いように護衛している選ばれし少数の者たちのみによって占有されているが、それはその偉大さの為である。それのみではなく、それをちょっと知る事でさえ、それを不適切に利用しようとする如何なる者の手に渡ると危険なものとなり得た。
人間によって獲得可能な全ての望ましい事の内で、人間の不滅性の確信、人間の創造の背後にある目的への明確な洞察、そして人間の運命の成就に向かった道に関する真の知識が最も大きなものである。それらの事は非常に厳密に保護されていたものであり、そしてそれらが丁度「地上」(Earth)で最も望ましい事であるように、それらは最も高く評価され、最も獲得するのが困難なものである。宗教は人間たちの努力を記録し、その教義と霊感はその成功または失敗の尺度となる。
今まで書かれてきた段落はいくつかの解読や翻訳が困難なものを置き換えるが、ずっと以前に記録されたものの本質を保持している。大部分は、使うには余りにも断片的であり、それ故に大量の部分が失われている。一つの非常に適切な断片があり、次のように述べている。「嘲笑に無防備であるのでなければ、「光の啓示者」(Revealers of Light)はかすかな曇った微光以上を手に入れていなければならない。」
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