日本語訳あとがき

2020年6月13日、コルブリン(Kolbrin)の日本語訳がついに終わった。感無量だ。底本は183ページのパブリックドメインのPDF文書。商業印刷版もあるが、パブリックドメインの方はケルトのドルイド僧が追記した"Coel Book"の部分を含めた「写本の書」の「暗黒なる日々」以降の章が省かれているようだ。まぁ、それでも良いであろう。古代エジプトより、キリスト教の検閲を受けずに連綿と受け継がれてきた、太古の知恵がそのまま記録された幻のエジプトの古文書、"The Great Book"の部分の内容こそが重要なのであるからして。日本語訳の部分だけでも、「太古の知恵」の大部分を伝える事が出来る。

前述の通り、コルブリンには商業印刷版もある。商業印刷版では、「写本の書」の残りの部分以降を含め、更にケルトのドルイド僧が編纂した"Coel Book"が含まれていて、かつ聖書のような引用体系が加わっている。コルブリン(Kolbrin)を「研究」したい御仁は商業印刷版(英語のみ)をあたるが宜しかろう。

それにしても長かった。パブリックドメイン版のコルブリンの翻訳を開始したのは2015年3月。途中、車や別荘などの道楽の道具を所有していた事もあり、翻訳作業をさぼり気味となってしまった。たった183ページに5年以上もの歳月を要したのは、私の個人的なライフスタイルによるものだ。

翻訳に当たって、言葉の正確な意味の把握には常に苦労した。本当に適切であろうか?今でも100%の自信があるわけではない。例えば、"scroll"は「巻物」なのか?この言葉にはかつて「書簡」という意味もあった。察するに、「光の子ら」の末裔たる「炎の子ら」の言葉で書かれた「金属板」が古代エジプトにおいてエジプト語の翻訳として残される時に、パピルスの巻物へ転写されたのではあるまいか。なのでそのまま「巻物」という訳を採用している。

コルブリンを興味本位でネタとする人たちの主要な関心事は、その中に度々登場する「破壊者」(the Destroyer)である。これは"Planet X"であるとか、一説によればシュメールの粘土板に書かれているとされる"Nibiru"(ニビル)と同一視される事がある。コルブリンの中の、特に日本語訳の最後となった「暗黒なる日々」の記述を見ると、どうやらその正体は褐色矮星であり、数千年に一度太陽系の中心部へ近づく、彗星のような長楕円軌道を持つ、太陽の「暗黒なる伴侶」であろう事が推察される。

褐色矮星は恒星になり損ねた木星型惑星だ。普段はその中心部で極めて緩やかな核融合が行われていて、赤外線を放出している。なので、肉眼や光学式望遠鏡では観察することが出来ない。それが太陽系の中心部へ近づいた時、太陽の引力によって刺激を受けてその中心部における核融合が活発化し、真っ赤に輝く天体となる。「破壊者」の軌道を地球が通過する時、地上には「暗黒なる日々」に記述されたような様々な「モノ」が降り注ぎ、また、その引力によって地球が鳴動して地面が波を打って、更に割れて「冥府の入り口」への口を開いて「地獄の業火」を吹き出し、そして様々なモノを飲み込んでいく。地球は褐色矮星の放射をもろに受けて気温はとんでもなく上昇する。海水は沸騰する。「暗黒なる日々」に記されたように、それが9日間続くのだ。

断言しても良い。世界は再び斯くの如く終焉を迎える。これはコルブリン、新約聖書の黙示録、マザー・シプトンの予言に通底している事だ。現代という時代はまさに、「破壊者」が再来する時期に相当する。コルブリン(の日本語訳)にも書かれているが、「破壊者」の本体は女性的な霊であり、それは受動的な存在だ。つまり、自らの意思で地球へやってくる訳では無い。数千年に渡る我々の「邪悪なる想念」の蓄積が「彼女」を引き寄せているのだ。現状を見るにつけ、最早回避する事は叶わぬであろう。

パブリックドメイン版のコルブリンが「破壊者」による地上の破壊の様子を最後としているのは、やはりそれを印象付ける為であろう。

しかし。より大切な事は。

コルブリンを読むことによって、人が生きるという意味をもう一度問いかけてほしい。

この世界へ何度も転生する事実とその意味。この世界を「卒業し」、霊の世界で新たな創造的活動を行う者の存在。仏教でいえば、如来と言われる人たちが該当する。彼らは最早地上へ生まれる必要がないのだ。コルブリンを読めば、自分の発する言葉に用心するようになるだろう。言葉だけなら「リップサービス」と思うかもしれないが、人は自分の言葉に必ず責任を負うことになる。それがエニドゥバデュ(Enidvadew)、仏教でいえば「業」とか「カルマ」と呼ばれるものだ。言葉を発する時は良く言葉を選ぶことだ。特に「誓い」を立てたり、約束をしたりする事は、自分に余計な義務を果たす事になる。

人間は3つの要素によって構成される。すなわち、肉体、霊および魂。霊と魂は別のものだ。

目に見えない世界だからといって、霊の世界が存在しない事にはならない。盲人は目に見えないけれども自分が対峙している「世界」が存在する事を感じ取ることが出来る。霊の世界もそういうものだ。感じ取ることが出来るのか出来ないのか。その人の「悟性」が試される。

魂はレコーダーだ。貴方の考えたこと、行った事がすべて記録される。それはこの世界にいる間は貴方以外誰もが見る事はできない。が、死後、貴方の生前の行いのレビューが行われる「審判の場」において、貴方の魂に記録された「秘められた事々」がすべて衆人の元にさらけ出される事を銘記する事だ。この世界では首尾よく人生を終えたと思っても、「審判の場」では全てがさらけ出される事になる。そして、その魂の質に応じた、その人に相応しい霊的世界へと進むことになる。簡単に言えば、天国へ行くか地獄へ行くかという事だ。

「神」がこの世界を創造された直後、「彼」は自分の創造物よりも奥まった御座へと退き、厚いベールで自身を覆い隠された。最早その御姿を直接我々人間が拝む事は出来ない。その反映が弱弱しくこの世界におぼろげながら見えてくるだけだ。それでも我々は「神」に近づかなければならないし、究極的には一人の神として自分の新世界を創造する事を宿命づけられている。そこがとりあえずのゴールなのだから。

これで私の人生のライフワークの一つが完了した。私は確かに日本人たちへ「この事」を伝えたぞい。あとは貴方がた次第だ。これからはもう一つの私のライフワーク、PCソフトウエアの創造に取り掛かろう。翻訳と違って、プログラムは「書く」だけでなく、きちんと「動かす」までが仕事になる。難易度は数段上がるであろう。

栗島隆一

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