序文

コルブリンは、その現在の著作において、数多の啓蒙的な教えを含んでいる。その教えは数世紀からなる宝であり、真実の道における明かりであり、過去と同様に現在においても適用できる。しかしながら、原本の文書はもっぱら不安定な状態で生き延びてきたために、相当な量の再構成がなされた。

ここで提示される大部分は、実際に、山積みの放棄された写本から救済されたのであり、この本へ書き直す元となった写本へ再構成される前に、部分的に消失したり、天候によるダメージを受けていたのである。

疑いもなく、追加の素材は善意をもって組み込んだのであり、空所を埋め、原文を詳しく述べている。様々な部分の現代化に当たり、何か失ってきたものがあるかもしれない。しかし、重要な点は、この本は歴史的な記録物、知的な作品または文学的活動であることを意図したものではなく、そういったものには及ばないものであり、むしろ筋が通っており、矛盾のない霊的教えの集まりであるということである。この見方だけにすべてがかかっている。ここで紹介される霊的真実は、すべて重要なものである。残りの部分は装飾として、紹介と伝達の手段としてみなされることができる。

伝達されるメッセージは常に、その提示形式の如何を問わず、もっとも重要な核心であり、倫理的に、道徳的にそして霊的に、コルブリンは類似の性質を持つ他の作品に対して何も譲るところはない。影響を与える作品として、自信と信頼を持って受け入れられることができる財産として見られるべきものである。

これらの転写ができるだけ純粋なかたちで変更なしに数世紀にも渡って伝達されるであろうことを確かなものとするために、過去において多大なる注意を払ってきた一方、関係している人々や団体についてはほとんど知られていない。既知のことからは、名称「コルブリン」は、当初は、グラストンベリー修道院が燃えた時にそこから回収された一群の写本に対して適用されていた。その炎には、放火であったのだが、それら写本を焼き払うことが意図されていた。しかし、それら写本は、火災の時には記録室や図書館とは違う場所に秘密裏に収納されていた。いずれにしても、これら「異端の作品」は壊滅したものと信じられていた。そして折よく、火災はその保存のための良い隠れ蓑であると分かったのである。

写本のいくつかは、ある時点で、金属薄板に転写されており、これらは集合的に「英国のブロンズ・ブック」として知らていた。17世紀より本「ステッチ」に書き改められた時にも、この名称は引き継がれた。題材はその時より章へと分割され、段落は番号付けられた。19世紀後期または20世紀初頭に全体が現代化された。現代版コルブリンに含まれたものは、回収された写本より複製されたと伝統的に主張されている写本であり、それらは金属板に書き起こされたもではなく、「コール・ブック」として知られる作品を構成している。

今世紀の最初の2、3十年の間、これらの本はイングランドの宗教団体の所有であったが、入信の要件があまりにも制限的であったので、その団体は決して非常に力があったわけではなかった。歴史を通して、コルブリンは常に消滅の危機に瀕していたように思われるが、それにもかかわらず生き延びてきたし、それが何であるかを全く知らない少数の人々によって保護され、そんな彼らは知的でも豊かでもなく、生活の実地的な事の方が優先度が高かった人たちであった。

当初は21巻から成り、英国の12巻の本、エジプトの8巻の本、そしてトロイアの1巻と呼ばれていたのだが、その名称についてはほとんど確証はない。これらの本のただ一部が残存するのみであり、歴史的特性のほとんどが切り落とされてきたようだ。

14世紀の初めにおいて、スコットランドに、「ジョン・カルディ」という人のリーダーシップのもとで確立したコミュニティがあった。かつてのカルディアン※注1は、彼らが言うところの「英国の宝」の保管者であり、決して多数でもなかったし、ゆるやかに組織化されていて、そのメンバーシップは各地を遍歴する鍛冶屋やその他の職人たちによって維持されていた。彼らは、以前はそれとなく「コフェリル」("Koferils")として知られていたようだ。コルブリンは「賢い訪問者」について言及しており、その趣旨として、これらは最初のカルディアン("Kailedy")であったとの言い伝えがある。その他の説明もあるのだが、書き手はいかなる明確なまたは立派な意見を表明する立場にもない。それはともかく本当に意味のあることなのか?我々は、「フェリルマスター」("Ferilmaster"、意味が判然としない言葉)は17世紀初頭に殉教した「ナサニエル・スミス」であったと言われている。この件は首尾一貫した組織体としての「古いカルディアン」の終焉となった出来事のように思われるが、コルブリンを保存するための段階は踏まれた。長い間に渡り埋蔵され、あるいは隠匿されたが、前世紀の初頭のある時期に、その複製が「聖書風英語」で完全に書き写され、第一次世界大戦直前までには二つの本として存在した。それ以来、コルブリンに関する様々な本がおびただしい変転を受け損なわれ、残存するものは原本のただの一部である。

先の世界大戦の間、古い本は「価値のないがらくた」として処分され、確保されなおした後「悪魔の不信心者の所業」再び放棄されたが、運よく、回復不能なダメージを受ける前に再び回収された。それらを再構成するのは、両立する現代の作品への参照によりいくつかのギャップを埋め合わせた見識のある共同作業者の助力をもってしても、易しい事ではなかった。

きっと、その現在のかたちにおいて、コルブリンは遺憾な点が多い。その内容はおそらく圧縮され、相当量の無関係な題材は削除されてきたということもあり得るだろう。しかし、編集者は一つ残らず見込みのある断片を保護し保持することがその責務であると考えたし、内容をふるいにかけたり、校訂したりそして要約したりするのは、よりふさわしい人に残すことにする。

明らかに、いくつかの固有名詞は誤ったスペルであり、もとの正しいもののいくつかは他の(誤った)ものに置き換えられてきた。というのも、昔は含めるべき題材の偏った選定があったように思われるためだ。歴史的正確性に関しては何も言うべきことはない。というのも、編集者はこの点において何ら意見を表明する資格を全く有しないからだ。しかし、前にも述べたとおり、コルブリンは教義や生き方の集成であり、歴史的な作品ではないのである。

その大部分が誰の手により書かれたかは重要ではなく、現代的な章にいくばくかの詳細が現れるとしても、それを誰が後に書き写したかを知ることはさらに重要度が低い。文体は厄介かもしれないし、非文法的でさえある。聖書的な英語の形式が、いずれにせよ学術的な主張をまったく行わない人によって現代化されてきたためである。この作品は古めかしい形式において提示されるべきであると議論になるかもしれないが、編集者はそれに同意しないし、我々も同意見である。どのような文芸作品であっても、それが判断されるべき基準は、そのメッセージと意図によってであり、その形式によってではない。言葉は、それ自体には実がない。コルブリンに意味と生命をもたらすのは全体の精神である。ここで提供することは、その文体や提示におけるすべての欠損や欠点と共に、その当初の形式に出来る限り近いかたちで伝えることの試みであり、それはすべての人に対する便益となるであろう。原著者たちは、言葉がその固有の意味を超えて何かを伝達することを試みたのであり、普通の土から栄光の殿堂を築き上げることに腐心したのである。

ここで提供されるものの重要さは、過去から現在の悲しむべき霊的空白へと投射するものの中に存在している。その助力の中で、普通の人々へ提示することができるのであり、それは文学界へ提供することの範疇にはない。これらの書き物は、この根拠のみに基づいて判断される状態で存在しなければならない。いかなる知識の真価も、今この場の価値に、今日の状況の中にあるのである。誤解されたり受け入れがたいと感じられるかもしれないために、数世紀の間その内容は秘密を保たれなければならなかったことを、コルブリンのより最近の本より我々は知っている。たぶん、今ならばうまくやっていけるであろう。

「善の力」に列せられるというただ一つの意図をもってこの本を復刻した。その出版は確実に困難を伴うであろう。というのも、そのような仕事が大衆を引き付ける力を有するとはとうてい思われないからだ。この本は、霊的観念や人間の向上心と共に、善良と美徳そして勇気と死すべき運命を取り扱う。このごろの「決断の時代」において、すべて不人気で嫌われた出し物である。喧騒と死すべき運命たる肉体の渇望を超えて愛を祭ることを探求し、そのことだけがこの本に対する嘲笑を非難するのに十分である。

細切れの情報をつなぎ合わせることとコルブリンを再構成することへ費やしたのと同様な労力が、社会の道徳上の弱さと現代生活の倦んだ、そして退廃した本能的欲望を食い物にすることに迎合する本へ投入されたならば、確実により人気となるであろう。しかし、こういった道徳的に不健全な時代であっても、出版物の価値は単にその大衆性のみによって決まると言えるのであろうか?

コルブリンでは、「マスター」達は彼らの探求の結果のみを記録に残すことができた。彼らは確信したが、それを直接他の人へ伝えることができなかった。もし他の人がそれを望むのであるならば、彼らもまた「マスター」達が辿った道、臆病者には向かない長くうんざりする道を辿らなければならない。その道に沿う最初の段階は、道徳律と必要な行動標準の研究である。次の段階はこれらを実践し、生活のルールとすることである。それらは修行であり、過去の真に啓発された人々が内部の認識力を覚醒できるようにし、「真実の普遍的源泉」と直接コンタクトをとることを可能としたものである。ただ彼らの段階を踏むことによってのみ、人は望みの目的へ至ることが確かである道を保証されるのである。

当初は、コルブリンは「開かれた書」と「閉ざされた書」の二部構成であった。後者はより正しくは「永遠の偉大なる書」と呼ばれ、前者は「生命の偉大なる書」と呼ばれた。ここで提供されるのは「開いた書」である。実のところ、この本にはかねてから知られていないことは何も含まれていない。というのも、人類は常にガイダンス無しでやってきた訳ではないのである。真実と知恵は誰にも独占することはできない故に、そこに表現されている多くのことがどこか他でも見つかるであろう。

一見すると、コルブリンはちょうど格言や古い話の寄せ集めのように見えるかもしれない。そのうちのいくつかは不完全である。しかし、この見地から判断することは、まるで塗装の中の塗料の顔料を分析したり、芸術家が伝えたかったことは何かを見出すために刷毛目を数えたり分類したりするようなものである。コルブリンを完全に理解するためには、そういった見地から離れて、それを全体として見なければならないし、その時でさえ、理解は目によってではなく心と頭に由来しなければならない。

社会というものは、社会の発展を通して進歩するのであり、革命を通してではない。しかし、今日の社会が呈する災いは、発展的な動きが誤った方向を取っていることを示している。過去の規範は、社会を安定化するために考案されたのであるが、一蹴され続けてきたし、他に何か適切な代替となる規範があるわけでもない。それがこの時代の悲劇なのである。

我々の社会がどこへ向かって進んでいるのかについてのより包括的な視点を得るために、我々はどこにいたのかをより良く理解することが多分必要である。コルブリンが世に送り出されるのはそういった状況においてであり、物事のより大きな仕組みの中にその場を見出すことになるのである。


脚注

注1:原語は"Culdian"。The Old Culdees - Culdian Rootsによれば、思想的にはケルトとキリスト教を混ぜ合わせたような信仰を持つ人たちで、昔のカルディアンは、いわゆる「クルデ」(Culdee)と呼ばれていたらしいのだが、現代のカルディアンはクルデ本来の意味とは異なるので、別に音読みして「カルディアン」とそのまま訳出した

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