第二章 エロマ

「神の子ら」の息子たちが、男らのやり方を良く知っており、特定の男とつがっていない「人の子ら」注1 の娘たちと結ばれることが起こった。「神の子ら」の約束は廃棄され、風変わりな女らが家庭に取り入れられ、ある者は妻のようであった。が、娘らはより劣った女であったとは言え、息子らは素晴らしい体躯であり、強力な戦士であった。

これらの新しい人々は荒れ地より現れて、キサミス(Kithermis)へと渡り、そこで彼らは3部に分かれて、その境界は川となっていた。この事が起こったのは、人間が完全に物質世界に依存したために、人間の寿命の年月が短くなった頃である。が、人間は、特に愛する者たちに対する敵意に満ちていたとはいえ、活力に満ちた状態であった。

東の方には、山がちなウバル(Ubal)の地があり、ウバライト(Ubalites)族は牧夫であった。西の方には、チェイスン(Chaisen)の地があり、北のウバック(Ubak)と接していた。南方はウトー(Utoh)とケイマン(Kayman)の地であり、そこの人々は平原に住み、土を耕していた。「神の子ら」の世帯からのある者たちは、チェイスンの地へ行き、人々に法を与えたり、煉瓦建築を教えた。ネタ―(Netar)とバレッツェラマム(Baletsheramam)は、エナナリ(Enanari)の息子らであるが、チェイスンの人々に書くことを教え、彼らの文字をヘラック(Herak)の柱に記した。エンキルガル(Enkilgal)は、ネンドゥカ(Nenduka)の息子であるが、二つの川の間に位置するケリドー(Kelidor)を建築した。

さて、年が延びることがあり、種まきの時期が混乱して種は土壌の中で死んだ。その頃、エノス(Enos)がチェイスンからやって来て、「人の子ら」の神を代弁した。その頃には、「神の子ら」の血を持つ持つ者がたくさんおり、その耳をエノスの言葉に傾けた。というのも、彼らは、彼らの父祖らの「偉大なる神」(the Great God)が彼らを見捨てたと考えていたからである。それ故に、人々を教化する「神」の言葉がエロマ(Eloma)にやって来た。

エロマは、カヘマ(Kahema)の娘であるが、「神」の声を聞いて、荒野の中、洞窟ときれいな流水のある場所へ行かされて、彼女はそこに7年間住んだ。エロマには3人の息子がおり、彼らすべてが「神」の声を聞き、「神」と共に歩んだ。エロマの最初に生まれた息子は、ハーヤナー(Haryanah)で、彼は「神」の言葉をノースランド(Northlands)に住む「神の子ら」へ伝えた。というのも、彼らは「神の道」を忘れてしまったからである。彼はディディ(Didi)、偉大なる王の娘と結婚し、より一層偉大なる王となった。彼はたくさんの息子をもうけ、彼らは名高い人々の間で皆王となった。ヤハマ(Yahama)は、エロマの2番目の息子であるが、日の昇る方角に住む人々に「神」の言葉を伝えた。そして、マナム(Manum)は、エロマの3番目の息子であるが、日没の方角の人々へ「神」の言葉を伝えた。

エロマの中で霊の耳が開いたとき、彼女は彼女の人々のところへ戻って「神の通訳者」となった。ある男たちが去って「人の子ら」の間に住む日々、他の者たちがエロマのところへ来て言った。「見よ、男らが離れ、我々は弱くなり、一方「人の子ら」は強くなっている。これが我々の父の意思でありえようか?」その後エロマは「神」に呼びかけ、「彼」は彼女の嘆願を聞き、彼女へ言った。「貴女の霊を安らかにしなさい。と言うのも、物事は起こるであろうように起こるのである。それはもみ殻からひられる穀物だ。人は霊のやり方よりも肉体のやり方に従う方がいつも簡単であり、抜け目ない人は地上的な物事の価値へ降りていくが、栄光の高みへと這い出るのはより困難となる。この先の世代において、10世代で再び興隆する。人は骨を折るか退化しなければならない。しかし、喜びの道は気持ち良いものではあるが、他方進歩の道は苦痛と闘争に取り囲まれている。」

「神」は「彼」のしもべエロマに言った。「見よ、「私」は「私の」子らに良いものであったし、彼らは好ましいあらゆる物を与えられ、あらゆる物が彼らの手にたやすく手に入って来た。「人の子ら」の多くはより過酷であり、それにもかかわらず彼らは繁栄している。子供からは子供っぽい事が期待されているが、成長した時はさらなるものが期待されている。にもかかわらず、「私の」子らは「私」注2 のもとへ子供としてやってくるのである。」

「神」はその後に言った。「行って、貴女が来たところへ戻り、そこに7年間留まりなさい。」そして、彼女はそのようにした。

7年が経ち、エロマは人々の元へ戻ると、見よ、肥沃な畑には種がまかれておらず、水路は乾き、水流の間は荒廃していた。エロマは畑の間を調べ回り、居住地へ着いたとき、彼女の心はずたずたに引き裂かれた。というのも、彼女は、「神の子ら」の娘たちが「人の子ら」の息子たちと付き合っており、真の女性らしくなくなっていたのを見たからである。そこで、エロマは彼らに言った。「何故にこの事が起こったのですか?」すると彼らはエロマに答えた。「見よ、男らが荒野からやって来て、我々男らはオオカミの前では羊のようであったのだ。見るがよい、今でさえ、我々の同胞らは隷属の囲いの中で労働している。」エロマはそこでその男らのところへ行って言った。「何故にこの事が起こったのですか?」すると彼らはエロマに答えた。「見よ、「人の子ら」の神は、我々のとは違って戦闘の神であり、我々は彼らの手に引き渡されたのです。」

その後、エロマは心が重くなり、「神」に呼びかけて言った。「「貴方」の子らの苦境をご覧ください。」それから「神」が彼女を聞き、答えた。「「私」は無関心ではない。というのも、彼らの受難は「私の」受難であるからである。彼らは人の鞭のもとにあるのではなく、「神」の殻竿のもとにあるのであり、穀物がもみ殻から分離されているのである。彼らは人の殴打のもとに労苦を強いられているのではなく、「神」の金槌のもとに行っているのである。彼らは拘禁されているのではなく、鉄床の上にいるのである。私は戦いの「神」ではなく、民族の「神」ではなく、人の「神」でさえない。私は「魂の神」であり、「永遠なる宝の管理者」(The Keeper of Treasures of Eternity)である。「私」は「私の」子らからそっぽを向いてきたわけではない。「私の」注3法に背いて、「私の」子らが「私」からそっぽを向いたのである。次の嘆願が人の世代を通じて響き渡っていくであろう。「「神」よ、なぜ故に私を見捨てられたのですか?」そして、この言葉は「神」を見捨てた者たちから出てくるであろう。」

立ち上がりなさい。行って人々の間を探し求め、心が純粋であるが、嘲りを受けており、豚の付き人とされることによって身分を落とされている一人の乙女を見出すであろう。貴女と共に彼女をシナラ(Shinara)へ連れて行き、彼女をよく保護しなさい。と言うのも、彼女は新しい夜明けの娘だからです。」エロマは人々の間を探し求め、ナウラ(Naura)、「暁の娘」(Maid of the Morning)を見出し、そして彼らはシナラへ行った。

「神」の声がエロマにやって来て言った。「これが、物事が神性を熱望する者たちと共にあるであろうための道である。彼らは「私の」通訳者の言葉を通して「私」が示す道だけを辿らなければならない。「神の子ら」の血筋をもつ者たちのなかに存在する霊の進歩と、人間に内在する偉大さは、彼らの子らの血筋において強められるであろう。血筋の結びつきが強ければ、彼らの知恵は大いに増すであろう。良いワインは薄めすぎると酷くなるように、人間の血筋における偉大さもそうなのである。その先祖が「神の子ら」であった者たちの血筋には功徳があり、もしこの血筋を持つ二人の人たちが結婚するならば、この功徳は彼らの子供において強められ、両親よりも大きなものとなるであろう。それからは誰も免除されることがない継承の法がある。というのも、人間は、より偉大なる法則と同様に地上的な生物の法則によって支配されるからである。新しい群れを作るために、最良の雄羊が選択されるのではあるまいか?だから、女たちに彼女らが選ぶことのできる男の間の最良の者たちを選ばせて、男たちに女たちの間の最良の者たちを選ばせよ。そうすれば「私の」言葉を心に留めた者たちは何が最善であるかを知るであろう。本当に偉大なる者たちに支配させるようにせよ。」

「神」は言った。「創造的な言葉はヴェールのこちら側に留まっているが、そのこだまは貴女方の側に反響している。実在はこちら側に留まり、その反映はそちらにある。創造は「私の」鏡である、その鏡は歪み無しというわけではないが。「私」は霊と物質のために創造した。「私の」思考は見ることのできない小さなものから理解不能な巨大なものにまで渡っている。「私の」最も偉大な思考は、この世界の息子や娘らの霊の為の物質を形作った。」

「真実と正義、美の完璧さと美徳は「私」と共にあり、貴女方は、地上ではその反映によってのみ知ることができる。真実の世界では、全てのものが幻影から解放されており、実在として見られる。が、地上では、その反映でさえ歪んでいる。「私」は光を箱へ詰めて、それを物質と呼んだ。それは、永遠に存在する潜在的な愛の光によって、内部において照らされているのである。」

「人間は多くの神々に呼びかける。すべての神々の上に、ただ一人の「神」がいるのだが。それにも関わらず、彼らが「私」を何と呼ぼうとも、「私」は彼らに耳を傾けるであろう。というのも、「私」は「名前を持つ神々の上なる神」(The God Above Names)であり、「全ての名前を包含する神」(The God Embracing All Names)であるからである。人間が何を信じようとも、もしそれが良い事を提供するのであるならば、それは「神」に仕えるのである。しかし、金のネックレスは羊のためのものではなく、そうすると崇拝の外面的な形式は霊的に未発達な人たちに十分でなければならない。人間の祭儀はしばしば空虚な儀式かもしれないが、同時にその儀式の背後に「偉大なる秘密」(Great Misteries)を保持することができるのである。

もし人間が祈りによって「私の」御前に入ることを望み、「「神」が私にこれを認め、あるいは私にそれを与える。」と言うならば、その事は、それがその人の霊的美徳や他の人の役に立つためでない限り、許容されたのでもなく与えられたのでもない。「私」は崇拝の見返りに天恵を交換する強引な押し売り注4ではなく、人間が与える如何なる物も私が持つものを増加させることはない。また、人々は注5、「私」は活気を添える霊が肉体を離れる時に腐食してバラバラになるような単なる肉体への関心に及ばないことを認識し損ねた時に、「私」にほとんど敬意を払わない。それにも関わらず、人間は単なる人間であり、「私」が理解と憐れみの「神」であることを知っている。もし人が、本当のストレスや苦痛にあって「私」に呼びかけるならば、彼は救済されない事はないし、慰められない事もない。けれども、苦痛や悲しみは人間に割り当てられためぐり合わせであり、それによって人は人神(Mangod)となることができることを理解しなさい。また、人間が従わなければならない「偉大なる法」がある。編み込まれなければならないエニドゥバデュ(Enidvadew)注6の込み入った事情もあるし、運命の挑戦の道や従うべき悲運もある。非常に頻繁に、行ったことや行わなかったことに対して支払うべき対価は苦痛や苦労、悲しみや困窮であるが、「私」がそのような負債を帳消しにするとしたら、負債者に対する恩恵はどこにあろうか?けれども、そういった事が無条件に必要であり正しいものであるのであろうならば、たった一粒の穀物でさえ、私はそういった事を見ることはないだろう。地上では、喜びや楽しさはいつも苦痛や悲しみよりも値打ちがあるであろう。」

「この世界はこの世界である。貴女らが見出すように受け取るが良い。そこで天界のような物を見つけ出すことを期待してはならない。この世界は指導の場所であり、人生の目的は学ぶことである。この世界のすべての物は有限であり死を免れない。不死はそこでは見つからないであろう。この世界の物たちがそれらの隠れた目的を成就した時、それらは死滅し、それらがやって来たところである塵へと帰るのである。」

「見よ、やがて来る時代に、真実がすべての民族に解き明かされ、彼らの必要と能力に合致するであろう程度と方式で啓示されるであろう。それは世代から世代へと、人から人へと受け渡されていくであろう。その炎の純粋さは、その炎に供給されあるいは補充される霊的な油の質と合致するであろう。この故に、多くの異なった程度の純粋さと啓示があるであろう。ある人が喜ぶ食べ物は、他の人の腹には重苦しく感じられるかもしれない。更に、一人の人が喜ぶ食べ物がすべての人の食べ物となるべきであると言うことはばかげているであろう。それ故、真実は、人々が信じる霊的な事と共にあるのである。」

「「私」は予言者らを送らないし、代弁者らを指名しない。が、そういった事は彼ら自身の努力と「私」との意識的な結合へ入り込むことを通して起こるであろう。彼らは道を指し示し、霊的に不屈な人々によって支持されるであろう。しかし、霊的により強くない者たちは、より緩やかな道を辿らなければならない。多くの者たちは信仰と勤労によって、あるいは他者に対する正義と親切さによってのみ進歩するであろう。」

「人間の中の神性の火花は、人間を常に前方へそして上方へと誘い出すであろう鼓舞される夢を生み出す。が、その道は長く、その旅は疲労させるものであり、しばしば不愉快なものである。人間は不必要に自分自身に重荷を負わせてきており、その霊は地上的な情念のうね曲がった薄板の中に覆い隠されている。堕落行為の道楽によって人間の「偉大なる目」(Great Eye)が目隠しされ、その霊が堕落によって蝕まれた状態で、その誤りを免れない感覚だけが人間に残されており、その感覚は人間を、死すべき定めたる乗り物が人間のすべてであると信じ込ませて欺く。苦痛と衰えが今や人間に割り当てられたものであり、人間は長く暗い夜の無知へと進む。今となっては、地上的経験の長く苦しい道を旅する事だけによって、人間の魂は清められて、人間の中の栄光の実現へと目覚めさせられるのである。」

「人間は「私」を自分の方法で認識するが、それはそれで良い。「私」は気難しい「神」ではない。「私」が創造を生み出したように、人間も「神」の啓示を提示するであろう。貴女には、「我が」子エロマよ、「私」は「霊的交渉と結合」(Communion and Union)の鍵を許可する。」

その後、エロマは外出して人々の間へ行き、次のように彼らの創造主(Creator)について人々に話した。「私は貴方がたに「神」、すなわち「永遠なる力の塔」(Eternal Tower of Strength)、「憐れみの底知れない海」(Fathomless Ocean of Compassion)、の魂のつぶやきである言葉を提示する。「神」は虚無の中にこの世界を吊るした。その周りには無があり、にも拘らず、「神」の力により、この世界は指定された場所に留まっている。「神」は、人間の霊を圧倒するといけないので、「彼の」栄光を幻影の盾の背後に隠した。「神」は死すべき定めたる無知の暗い雲によって覆い隠された。「神」は常に人間の心に入り込む霊感を与える霊であり、人間たちを目覚めさせて、人間たちが偉大さと成就へと手を差し伸ばすために奮闘している。」

「「神」は我々の上に空を形作り、光彩と畏怖させる美しさで空を飾り立てた。「神」は星々にそれらの喜びの歌を教え、風には不思議な音楽を教えた。すべての広く行き渡った地上は「神」の創造性をはっきりと示し、高い蒼穹は「神」の技量と手細工を現している。「神」のメッセージが出て行き人間へと届くが、人間の言葉によってではなく、人間の心に対する言葉のない囁きによってである。「神」の指は肥沃をもたらす流れのための水路を命令し、その流れは荒れ果てた砂をはぐくみ、死んだ土壌から柔らかい芽を噴き出させる。柔らかな流れは土壌を撫で、牧草地が起こって多数の羊や牛の群れの居住地となる。」

「バラはその美しさを花開いて「神」を称え、忍冬は風にのって運ばれる香りで「神」を喜ばせる。トウモロコシ畑は謙虚に穂を垂れ、そして小麦の茎は「神」を褒めたたえて真っ直ぐに立つ。木々はその崇拝する枝々を広く伸ばし、大麦の頭は「神」の太陽の恵みである賜物について皆で囁く。「神」は「全生命の源泉」(Fountainhead of All Life)であり、「肥沃をもたらす流れの監督者」(Overseer of the Fertilizing Waters)であり、「星々の頭領」(Captain of the Stars)である。」

「人間は夜空の巨大な円蓋の下に立ち、彼らの建築家の作品やそんな美の模様で表される鮮やかな秘密によって畏怖の念を抱かされる。人間は自分たち自身の小ささを狼狽するが、古代より人間たちに伝わって来た「神」の言葉によって元気づかせられる。」

「「神」は人間を全生命の頂に載せ、知性の笏をその手に据え付けた。「神」は人間に、他のすべての生き物を支配する殻竿を与え、創造の王座に配置した。「神」は我々が若い頃には我々をしつけ、我々が人生の旅の終わりに近づくときには手を伸ばして喜んで迎え入れる。「神」は人生の道に沿った巡礼の旅において人間と共にあり、その逆境を和らげ、その楽しい驚くべき事件の折には人間と一緒に喜ぶ。「神」はすべての人間の人生のバランスを取り、継続的に各人に相応しい条件や状況に遭遇するようにしている。」

「広く行き渡った神秘的な天界は「神」の御座であり、慈悲深いこの世界は「神」の足載せ台である。人間が建築することができる如何なる構造物も「神」を包含することはないであろう。まして、「神」が居所を必要としたとしても、人間の手によって建築された如何なる場所も「神」の手が建設したものと比較することはできない。人間が「神」に与えることができるもので、「神」の栄光を強めることができ、あるいは「神」の所有するものを増やすことができる如何なるものも、この地上には存在しない。人間が捧げることが出来る唯一の受け入れられる供犠は、「神」の意の為の勤労であり、そして「神」の意は、人間は自身を霊的なものとすべきであり、この世界を改善していくべきであるということである。供犠として物や金銭を捧げることは、「神」に対する無礼であり、それは必要な努力を回避しており、必要な責務や義務から逃れていることになる。それは安逸なる方法であり、受け入れられることはない。」

「「神」は貧しい者の隠れ家であり、生活が苦しい者を慰める者である。「神」の憐れみは、困難が重く人間にのしかかる時に、人間を包み込む。けれども、苦しい試練や逆境、悲しみや苦しみが、地上的な生活から不可分な困難さの上に果された不必要な重荷であるとみなされる訳ではない。それらは「真実」(Truth)への目を開く価値あるものであり、鉄が炎の中で焼き入れされるように霊を焼き入れするものである。」

エロマは多くの事を話し、如何なる者もその弁舌さわやかな舌が欺き、その魅力のあるやり方が男らを道から踏み外させる未婚の婦人と姦通することを禁じた。また彼女は、男らは如何なる乙女や他の妻とも姦通すべきではないことを定めた。というのも、誰もそうしないことは、自分自身を志操正しい男であると呼ぶことができるし、そしてそのような行いは霊を毒するからである。

その運命に従って旅をする星々の知恵を人々に教えたのはエロマであった。彼女は人々に宿命と運命の紐から編まれ、エニドゥバデュ(Enidvadew)の様々な色のより糸で絡み合わさる各人の人生のパターンを解釈することを教えた。これらの事は、イシュキガ(Ishkiga)によって知識として身に着けられ、書き出された。


脚注

注1:原文は"The Children Men"とあるが、明らかに"The Children of Men"(人の子ら)であろう。

注2:原文は"me"(大文字でない)。しかし、その直前の"My"と併せれば、創造主たる「神」を表すのは明らかなので、"Me"(大文字)と考え、訳出には「」を付けている。

注3:原文は"my"(大文字でない)。しかし、ここは「神」の話している内容であり、創造主たる「神」を表すのは明らかなので、"My"(大文字)と考え、訳出には「」を付けている。

注4:原語は"huxter"。私の研究者リーダーズ+プラスV2には載っていないのだが、huxterによれば、"huckster"の古いスペルらしい。"huckster"は強引なセールスマンなどの意味がある。

注5:原語は"me"。主格ではなく目的格であることもおかしいし、従属節で"they"が主語となっているので、"they"と置き換えて訳出した。

注6:「エニドゥバデュ」(Enidvadew)は、人生を縛るある種の制約である。仏教用語でいえば、因果応報の縛りといったところか。初出は、創造の書 第五章 始まりにて

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