第十五章 神の声

(この章は、理解が困難な原本の当世風に改訂された版であり、その原本はたぶん幾分かの補間となる素材を含んでいるであろう。)

「神の声」(Voice of God)が、「天界」(Heavens)より、「ウニス」(Wunis)の時代のずっと前に「神」(His)のしもべにやって来たが、最近になって、幻の洞窟内でそれを聞いた「神の忠実なる者たち」(His Devoted Ones)である或る人たちにやってきた。後に、各人は自分自身が聞いた内容を書き留め、そして見よ、彼らが一緒になると、各人が同じ言葉を記録していたことが分かった。かくして、その3人によって聞き届けられて記されたことは、全て同様なことであると合意され、永遠に記録されることとなったのである。

「「私」は、「全ての人々の神」(God of All Men)であり「人々の心の支配者」(Ruler of their Hearts)である「神の声」(Voice of God)である。「私」は数多くの側面を持ち、すべての人々に違ったかたちでやって来て、故に「私」は「数多くの顔を持つ神」(God of Many Faces)である。我がしもべたる貴方には、「私」は、全ての人々へ伝えることができるように次の言葉を与えよう。「私の」命令に従いなさい。さすれば「私」は「貴方の神」(Your God)となるであろう。「私」は貴方を照らして指導し、貴方を道に沿って導こう。「私」は貴方の愛と忠誠、そして「私の」計画への忠実な支持を所望するが、私は貴方の追従を望まない。「私」は貴方の「神」であるだけでなく、同様に貴方の「指導者」(Commander)であり、それ故に「私」は、行く手に控えている者たちのように苛烈でつらい戦いに対して準備のできた者たちに相応しい恭順と修養を期待するのである。」

「「私」の望みは、無益な焼かれた捧げものよりもむしろ愛である。が、それは受け身の愛であるべきではなく、「私の大義」(My Cause)において奉仕を表現するものである。正しい事と悪い事のある知識があったとして、自由意思で前者を選択することは、無意味な儀式的な崇拝よりも「私の」目により良い価値として映るのである。「私」は、雄牛や子羊の無駄な流血から何の喜びも得ることはない。「私」は、羊の脂肪やヤギの肉から何も得ることはない。「私」は「全てを創造せし者」(Creator of All)であり、人間たちは「私」の偉大さを増すためにいったい何を提供することが出来るというのか?もし自分たちの罪が空虚な儀式によって洗い流されることができると信じているのであるならば、人間たちは誤解しているのである。ただ積極的な善良のみによって、罪の汚れを消し去ることができるのである。」

「人間たちはビクビクして「私」に近づく。彼らは卑屈になって「私」の下へやって来る。彼らは自分たちの罪に対する許しを請い、この世的な事柄に関して「私の」助力を要請する。「私への」称賛を唱えることは、「私」に対して神聖とされた場所へやって来るための申し訳であるが、それはただ元気づかせるだけとはいえ、彼らは何かを望んでやってくる。「私」に向かってこのような態度を持って、貴方がたは私が彼らの嘆願の前に沈黙を守ることを不思議に思うのか?もう「私へ」無益な肉や血の捧げものを提供しないように。というのも、そのような生命の無駄は「生命の神」(God of Life)に対する無礼であるからである。貴方がたの祝宴や祝祭の一切合切から「私」はどんな便益を得るのか?「私に」献身と努力を捧げなさい。それらが「私」が要求する全てである。全てにも増して、自分自身に対して誠実でありなさい。というのも、「私」は偽善の顔、人間たちが「私に」近づくときに今や残念な程お馴染み過ぎる顔を忌み嫌うからである。」

「人間たちは、「私」がそれらを食すると考えて、あるいは「私」にはそのような食物が必要であると考えて、「私」に肉やワイン、精製した小麦粉や小麦のケーキを持ってくる。そういったものが、未亡人や孤児、貴方がたの間で黙認して存在しているところの非常に多くの貧しい者たちへ差し出される方が、ずっと良く「私」に仕えることとなるであろう。貧困は人間が生み出したものであり、富裕者が貧困者に施しをするだけでは十分ではない。権力と地位を、そして富と十分な財産を持つ者たちは、貧困の原因をめがけて手を打たねばならない。もし彼らがそれに失敗すれば、彼らの施しは「私」の目に何の価値もない。」

「貴方がたの儀式ばった集会、単調で退屈な行進、浮かない顔つきやもの悲しい表情は、「私」の心に何の喜びももたらさない。貴方がたの煩わしい儀式や、生命や食物の無益な捧げものは、「私」にとって全く役に立つことはない。人間たち自身がそういったものから恩恵を得ることができるであろう。が、彼らがそれを「私」の名において行うと宣言する時の偽善は、「私」から隠されることはない。」

「貴方がたの香の煙の臭気は立ち昇り、虚空へと消えていく。が、それが「私」へと届くことはなく、「私」にはそれが必要なわけでもない。しかしそれでも、貴方がたが、人間たちの霊を鎮めることによって内部的な調和と安息をもたらすその香気を楽しむことを否定しないつもりだ。また、邪悪さの足かせが貴方がたの魂からそれによって解き放たれるのであるならば、「私」は貴方がたの祝宴を否定することはないだろう。が、そういったものが「私」の便益のためや「私」の栄光を讃えることのために企てていると言ってはならない。断食や肉体的欲求の否定は人間たちにとって有用な目的にかなうかもしれないが、貴方がたがそういった事の意図に関して自分自身を欺くことが出来るとはいえ、そういった事の目的を誤って述べることによって「私」を欺こうとしてはならない。私は、人間たちの心の中に沸き起こってくる喜びや溢れんばかりの豊かさを押し殺すことを望まず、むしろ一層そのような人間味のある感情が養われることを好むであろう。それ故に、もし祈祷がその真の目的、それは意思疎通が可能となるように貴方がたの霊を「私の」霊と調和させることであるが、その目的に役立つのであるならば、祈りなさい。もし貴方がたの祝祭や祝宴がその目的、それは貴方がたの霊を鼓舞しあるいは洗練することであるが、その目的にかなうのであるならば、それらを続けなさい。貴方がたの霊を高め、貴方がたの魂を進歩させるあらゆること、それは人生の真の目的であるが、そういったことをやりなさい。貴方にとって良いことを全てやりなさい。貴方にとって全体的に有益なことはすべて受け入れられる。が、そうすることによって貴方がたは「私」に対して便益を与えたと言い放ってはならない。「私」は全ての上なる、全てを超越する「神」である。」

「「私」は貴方がたが祭儀や儀式を執り行うことを否定しない。もし貴方がたが意図するように望むのであるならば、「私」を崇拝しなさい。しかし、それが貴方がたの義務の代わりになることは出来ないことを心に留めなさい。祭儀や崇拝は、貴方がたがやり損ねたことに対する清算や支払いとなることは出来ないし、貴方の欠点に対する言い訳にもならない。まして、それらが貴方がたの同胞たちに対する不正行為を償うこともない。もし貴方がたが祭儀や儀式へ重要さを添えるのであるならば、それを正しい割合で行い、それによって貴方がたの邪悪な、暴利をむさぼる、そして不正な行いに対する良心を鈍らせてはならない。貴方がたが、形式化した祭儀や儀式に従って「私」を熱心に崇拝するからといって、貴方がたの責務や義務を怠ってはならない。そういったことを、空腹な者たちにパンを分け与えなかったり、あるいは貧困なる者や弱き者たちの必要を顧みないための言い訳としてはならない。「私」は欺かれることはない。「私」に献身する人生は、崇拝に心を奪われたものではなく、それはむしろ未知なることを前にして震えている臆病者の人生である。自分の人生 注1 を「私」に捧げる者は、宿無しに雨宿りの場所を与え、困窮する者を助けるが、そういった事でさえ善の最高点ではない。というのも、そういった事は消極的に受け入れられるものだからである。究極の善は全ての悪の根本原因と積極的に戦うことである。私の真の門徒である者たちは、役に立ちかつ善良なる人生を生きる者たちである。彼らはその隣人たちと調和して生活し、何者も害さず、地上的な存在の重荷や義務から逃れることはない。」

「儀式や捧げものによるものよりも、「私の」法に従ったり、「私の」計画に適合することによって「私」に仕える方がより好ましい。「聖なる書」の言葉に耳を傾け、それを理解しようと努力することは、僧侶たちが「私」に対して行う以上に僧侶たちに便益をもたらす肉や宝物の捧げものよりも「私の」目にかなっている。「私」が忌み嫌うもののうちには、悪人の偽善的な捧げものよりも憎むべきものはない。偽善者の捧げものや崇拝は、「私」にとって実に不快なことである。悪は地上の向こう側の世界へ悪臭として入っていき、全てのうちでより悪いものは偽善の臭いである。偽善者にこびる者たちや、積極的に彼らに対抗しない者たちもまた、悪の奴隷である。」

「「私」は人間たちが行いがちな欺瞞を非常に良く知っている。姦通者や私通者は貞節を他人に説教し、その一方、その嘘つきは「真実」の美徳を言い放つ。その盗人が誠実さを説教し、そのみだらな思考の者が謙遜を装う。人間たちはあることを言ってはそれに他の意味を持たせ、一方では、半分のまたは歪曲された真実が大抵は本当のことにとって代わる。人間たちは彼ら自身や他の人間たちを欺くことが出来るが、「私」が欺かれることはない。そうであるならば「私」は言おう。人間たちはまず自分たちの魂を洗い清め、「私」に近づこうと考える前に偽善を根絶させよ。人間たちは叫ぶであろう、「何故「神」は無言のままであり、なぜ「神」は私を見捨てたのであろうか?」彼らは自分たちの行いが隠蔽されており、あるいは「私」が彼らの心の秘密を読むことが出来ないとでも思っているのであろうか?」

「不公正な人間たちによる崇拝は、ただの猿芝居である。誠実で純粋な心によるものがなんと稀なものであることか!人間たちが実際に彼らの「神」から見捨てられていたのであるならば、彼ら自身以外に責めるべきものは何もなかったであろう。人間たちは、親切さや他者への思いやりの欠如、不誠実さ、そして矛盾が「私」から隠されていると思っているのか?「私」は「全てを知る者」(All Knowing One)である。「私」には、人間たちの心の中の善良の愛が非常に少ないことを、そして人間たちの行いの結果に対する恐れが非常に大きなものであることが分かっている。」

「真の誠実な崇拝は、「私の」法に従い、人間たちの責任を肩に背負い、一貫して「私の」意図に従い、友好的な調和の状態で生きることである。「私」にその人生を捧げる人は、同様にその人生を自分自身の幸福へと 注2 捧げるのである。「私に」良く仕える者は、同様に自分自身に仕えるのである。それが「法則の中の法則」(Law of Laws)である。というのも、人生の全目的は、神を礼拝することではなく、人間の魂を発展させることだからである。空虚な祭儀や無益な儀式でもって「私」を崇拝するが、自分自身の魂の幸福をおろそかにする者は、「私」に良く仕えていないのであり、それはその者が「私」の目的に反しているからである。「私」は「私の」似姿に形作った人間に神を信ずる本能を与えた。というのも、それは、炎が熱を生成するように、人間の永久不変の霊から生じるからである。それ故に、崇拝することは不自然なことではない。しかし、盲目的な崇拝には活力を与える要素が欠けていて、その目的を無に帰している。というのも、本当の崇拝においては、人間は自分自身の魂を見出すために自分自身を超えて外部を探求すべきだからである。それから、それが出来たならば、その魂が神性そのものを熱望するまで進化させるべきである。」

「それ故に、貴方の全ての努力と貴方の手の技能を「私」に捧げなさい。そして、貴方の心が常に霊的な事との境にとどまるようにしなさい。貴方が大事に育てる人生が霊的人生となるようにしなさい。すべての虚しい望みや利己的な考えから、全ての無価値な邪魔物から、得るところのない強欲や無益な渇望から、肉欲の支配から貴方自身を解放しなさい。人生は気楽なものではないし、全面的に楽しいものでもない。そのような人生は存在しなければならないものではない。しかし、貴方の重荷を愉快さと不屈の精神をもって耐えなさい。貴方自身を精神的な平和な要塞の中で身を守りなさい。」

「貴方が行ったり与えたりするものはどんなものでも、「私」の名のもとに行ったり与えたりしなさい。また、どのような苦しみが貴方に降りかかろうと、「私」のためにそれを受けなさい。かくして、貴方は愚かな自負心という欠点を避けるであろうし、全て与えられたり受けたりした物事は、いかなる自己の利益の汚点もないものとなるであろう。」

「善への道は、辿ることが楽なものではない。というのも、それには難局や懐疑の落とし穴がちりばめられているからである。そのうえ、加えて更に、一つの道だけではなく複数の道があり、人間たちのうち、どの道が最善であるかを知る者はほとんどいない。どこへも導くことのない多数の誤った道が存在し、幻滅の荒野へと導く道があり、ある道は破滅へと導く。にもかかわらず、時々に様々な地でひょっこり現れる数多の信仰の中には、あるものは遠回りしていて、あるものは危険な領域を彷徨うとはいえ、同じ「真実」(Truth)、一つの「光の根源」(Fountainhead of Light)へと導くものが常に存在する。そういった道は巡礼者を一つの宮へと導く多数の道のようなものである。全ての真実なる道が「真実」の導きの光によって照らされているにも関わらず、全ての者がそれを同じものと認識するわけではない。しかし、落ち度はその光というよりもむしろそれを見る者にある。お互いの教えに対する誤解を導き、一つの道を好む者と他の道を好む者たちの間で論争が起こるのは、これによるのである。各々が自分自身の道や自分自身の光に対する解釈が、唯一の方法ではないとは言え、最善であると考える。」

「真に教え導かれた人々の間においてさえ、「私」の真の性質を認識することが出来る者はわずかであり、その者たちは「私」が顕現において不変性を超越さえしていることを知っている。「私」は「私自身」を何か他のものとして考えることができるし、そして直ちにその他のものが出現する。人間たちの間には、全ての生命、すべての「我が」創造物は感覚の幻想であり、支えるものがない夢であると言い放つ者たちがいる。彼らは誤っている。というのも、現実のものの全て、そして存在するものの全ては、常に潜在しているのであり、目覚めのキスを待っている状態であるからである。人間たちが実際存在している実在を知ることが出来ず、彼らのあてにならない感覚をもってその実在の姿を認識するからといって、その実在が少しでもより現実さを失うことはないのである。もし全ての人間たちが盲目であったとしても、それでも星々は存在していたであろう。」

「実在も「真実」も、そしてその両者の上なるそれらを超越した者である「神」も、究極の人間の精神にとって認識不能であるということはないであろう。現在の未発達な状態で無知な人間だけが、そのようなものを認識できないだけであり、それ故に、盲な状態にあるので、そういったものは人間の視野の外にあり、人間はそういったものが存在しないと言うのである。」

「この世界の始まりにおいて、「私」は、それなくしては人間たちの魂が発展も進歩もすることが出来ない「法則」(Law)を確立した。各魂そのものは、神聖さの全ての力がその中に潜在した神聖な断片であるので、「偉大なる法則」(Great Law)以外のあらゆるものを変更することができる。人間は考えるが、その思考だけでは創造を行うことが出来ない。というのも、今のところは、人間には物質中に創造する力に関する知識が欠けているからだ。最初に「私」は天空を創造し、それは全ての母体となった。それから、「私」が創造的な力が外部へ流れていき、その媒体に作用するのを思考した時、物質的な物に存在がもたらされた。」

「光が炎の前に現れるように、あるいは熱が火の前に現れるように、「私」の創造物が「私」の前に現れた。「私」が存在するので、創造物が生じて、依然存在した状態となっている。それは「私」自身であるからである。人間がその陰に影響を及ぼされるように、あるいは光がその反射に影響を及ぼされるように、創造が「私」に影響を及ぼすことは全くない。雨滴、波、川、露、そして霧はすべて水の形式であるように、存在して知ることが出来るあらゆるものもまた、一つの実体の様々な形式に過ぎない。この実態はその源が「私」の中にあるが、「私」そのものではない。」

「「私」は万物の源泉であり、それらを支えているが、それらによって支えられている存在ではない。地上を激しく吹き荒れる強力な風でさえ、上なる静かな広漠たる広がりにその休み処を見出すように、全ての存在と全ての物は「私」の中にその休み処を得るのである。全ての物が安定して形を保つのは、「私」から流れ出る力によるのである。」

「自分の人生を「私」への奉仕として捧げる者たちは、愛と「私」への崇拝以上のことをしなければならない。というのも、そのような奉仕は人類を高めること、善の普及、悪との闘いを必然的に伴うからである。彼らは神を否定する者たちに対して戦うだけであってはならないし、同様に彼ら自身の思考に沸き起こる邪悪さに打ち勝たねばならない。「私」を愛する者たちは、全ての人間たちの幸福を望み、彼らの魂は調和と平和に満たされている。彼らの「私」に対する愛よりも「私」にとって貴重なものは、「私」に仕える者たちの骨折りと艱苦である。「私」は彼らの目的である。「私」は決して「不活発な神」(God of Inertia)ではなく、「奮闘する神」(God of Effort)である。もし貴方が「私」への奉仕や「私」の企図への適合にて行ったことだけを差し出すのであるならば、貴方は適切に「私」に仕えているのである。」

「しかしながら、非常にまれに、人間たちのやり方が「私の」企図に適合しながら、その仕えている者たちの地位が十分でないことがある。それ故に、「私」は人間たちの間から指導者たちを呼び起こし、奉仕に対してクラリオンの触れ声を送り出すであろう。「私」は「私」に対し勤勉にそして忠実に仕えるであろう者たちを探し求めるであろう。彼らは友好的な性質の善意なる者たちであろう。彼らは親切で哀れみ深い者たちで、深く真に愛することが出来、その断固たる姿勢は喜びや苦悩において変わることなく、その決心は、不運の過酷な殴打の時と同様に、幸運の甘い抱擁においても等しく崩れることはないであろう。「私」は公平でそして正しく、誇り高くそして断固たる者たちを送り出そう。しかし、こういった資質は、彼らがまた勇気や決心、胆力や不屈さを有していなければ何の意味もなさない。」

「「私」は自分自身で常に探求していて、人生の謎を解き明かそうとする者を探し求めるであろう。その決断は強く、邪悪さを忌み嫌い、そしてその心と内面のありさまが正しい知識を得ようとする善人たちの間で非常に喜ぶ者を。その者の落ち着きはストレスの元、揺さぶられて変わることなく、その心の中には、興奮や怒りの力の及ばない平和の安息所があるであろう。彼は知恵を愛し、真実を求める者であろう。賢い者、何をすべきかを知っている者、他の者たちが自制心を失っている時に穏やかさを保つ者、ストレスの元頭脳明晰なる者、仕事の挑戦を楽しむ者、そういった者が「私」のものである。不平を言わずに骨を折る者、醜い欲望を満足することを良しとしない者、名誉の誘惑や不名誉の圧迫の元、その霊が同様さを保つ者、価値のない地上的な愛着の足枷から解放された者、賞賛や非難の元でバランスを維持する者、自分自身の重荷を背負うことが出来る者、全ての状況においてその霊が穏やかで、静かで、そして強い者、人生の責任と愛の責務を負うことが出来る者、そういった者が「私」のものである。「私」は「霊感の神」(God of Inspiration)であり、「私」は「愛の神」(God of Love)である。」

「「私」は知る者であり、貴方がたは知られている者である。「私」は生命の源泉である。「私」の全宇宙の広漠たる広がりの中に、「私」は存在することになるであろう物の種を配置し、そこから現存する、あるいは常に存在するであろう全ての物が現れたのである。」

「人間たちは自分の霊を育て、霊的な食物で元気づけなければならない。彼らはまた、霊は何か人間から離れた場所にあるものではなく、つまり人間の内部に存在するものであることを知らなければならない。人間は霊であり、人間は魂である。人間の手の届かないところにあり、その理解を超えたところに存在する遠く離れた物事に関して長ったらしい空っぽな議論に従事する必要はない。霊の実体について知り、魂の存在を確固としたものとするには、人間は、自分自身の内側を探求するために、ただ自分の性質の中へと掘り下げていくだけでよい。人間の霊的な部分は自分の存在の外部にある何か不可思議なものではなく、また、理解することが困難なものでもない。それを発見するには、たかが探求の努力が必要なだけである。」

「正直な心を持つ者は、道を探し求めて、開始地点要求する。しかし、ほとんどの者にとって、重要なのは自制であり、これが数多の法則や制約の理由である。が、それらは決して不必要に制限的であってはならないし、それぞれが明確な目的や役に立つ目的を持たなければならないが、そういったものは不明瞭であるかもしれない。不健全な望みに打ち勝ち、神聖なるものと一致するための手段は、全てに手が届く範囲に人間を調和させるが、その養成においては努力が費やされなければならない。もし目的が人間の概念を超えて大きなものであるならば、人間の眼前の仕事はこの上なく骨が折れ困難なものとなるのは確かに事実であろう。自分自身を御し、完全な自制を得ることは、行くべき道に沿った最初の段階に過ぎない。」

「「私」が人間たちから隠されているからといって人間たちは絶望するかもしれないが、また彼らは「私」を見つけることなく探求するかもしれないが、「私」は彼らの要求や願いに対して無関心なわけではない。疑念や不確実さは明確な目的にかなう欠くことの出来ない地上的条件である。「私」は難問や不必要な不明瞭さをもって人間たちを取り囲んできたのではない。不信心と唯物主義の風潮は、人間たちには不思議に見えるかもしれないが、彼らの霊的健康のために最良のものである。「私」は、人間たちにとって何が最も良いものであるかを、人間たち自身よりも良く知っている。というのも、「私」だけがいくつもの時代に渡ってきた大掛かりな計画を知ることが出来るからであり、「私」だけが目的や目標を知っているからである。暗愚な人間たちが期待するとはいえ、「私」が地上のことについて過度に干渉するのは適当ではない。」

「全ての物は「私のもの」であり、「私」の支配圏に存在する。が、人間は自分が望むようにそれらを取り扱ってもよい。「私」は干渉しない。が、最終的には人間が責任を持つのである。「私」が全てを所有し、何も「私」の崇高さに付け加えることは出来ないが、その全てをもって、「私」はそれでも働く。それ故に、人間は労働をさげすむべきでは決してない。というのも、それは「最も高き者」(Highest)の属性だからである。「私」は、「私」がしようとしない何かを、あるいは「私」がなることができない何かに人間が行うことまたはそうなることを、だれか人間に強く要請することはない。「私」は「正義の神」(God of Righteousness)である。もし私が常に働くことを止めたのであるならば、世界は無秩序な状態となり、混沌が広がって破壊をもたらしたことであろう。」

「「私」は「多様な側面の神」(God of Many Aspects)である。というのも、人間たちは自分たちが望むいかなる形式でも、あるいは形なきものとしてさえ「私」を想像することができるからである。「私」は「人間の心の神」(God of Men's Hearts)である。どちらのやり方によっても、そしてどのような名前で人間たちが「私」に仕えようとも、「私」の法則を守りそして「偉大なる計画」(Great Design)と一致することは、「私」の目にかなっている。人間をその目的地へと連れていくであろう如何なる道も、正しい道である。実に、人間たちが選択する道は数多く変化に富み、あるものは遠回りでさえあるが、もしその道が正しい知識の、そして発展の正当な道であるならば、それらは「私」の目に満足なものである。しかしながら、自分たちの望みと合致すると理解された地上的な神々に犠牲や崇拝を捧げる、地上的な力を渇望する者たちは、「私」には受け入れられることはない。地上的な成功や権力はそれらを得ようとする者たちにもたらされることがあるのは真実である。が、彼らははかない満足以上の何かを成し遂げたであろうか?全ての人間たちが神聖なる正しい知識をはなから持たず、もし地上的な目的だけが人間たちの精神を支配していたならば、いったいどんな人生のやり方が現在地上を支配していたであろうか?地上的な人生が唯物論によって優位性を発展させるまで放置されたとして、もし、それが神聖なるものの投入によって和らげられることがなかったならば、どんな地上的な人生が同様となっていたかを考えよ。」

「善であり、「私」に適切に仕える人間には主に4種類がある。魂を進歩させる苦悩や悲哀に勇敢に耐える者。地上や人間が便利になるように働く者。「真実」を追求する者、そして、構想力と創造力を有する者。が、こういった者たちのうちで自分の履歴を悪の行いや邪悪な思考によって汚さない者が、どれだけまれであることか。残念なほど多すぎる者たちが、彼らの肉体的な欲求や邪悪な行為によって、彼らの善良を彼らの不滅なる魂の損傷へと逆らわせてきた。」

「もし人間が善意と誠実さを持って偽りの神に従い、人々によく仕え、「私」の法則と一致して生活するのであるならば、「私」はその者を退けることはしないし、彼には発展途上にある正しい知識が与えられないことはないであろう。魂がその道に沿って旅をしてその進歩や自意識の覚醒をもたらすであろう道は多数存在するが、最善の道を選択するのが有利なのではないか?愚者のみが、手引きや指示を求めずに、むやみに旅をする。ほとんど知恵のない者たち、または簡単に惑わされる者たちは、どこへも至らない道を辿る。無益な信仰に従う者たちは、不毛な目的地へ着く。彼らは、希望が欠けた、自分の夢や大志を遂げることのできない、ただ空っぽな場所を見出す。」

「自分たちの想像上の神々、人間の創造的な着想によってもたらされてきた奇妙な似姿の神々を崇拝する者たちは、ほの暗い影の領域に存在するこららの神々へと向かうであろう。より低級な霊を崇拝する者たちは、それらへと向かい、暗黒の悪霊を崇拝する者たちは、それらと結合するであろう。というのも、その人間が望むものを、人間は受けるに値するからである。人間が望むものと存在として実体化するものの間には、関連がある。人間が自分自身の創造性の果実を受けるためには準備が必要である。」

「貴方が行うことは何でも、貴方が計画しあるいは創造することは何でも、貴方が被ることは何でも、それを「私」のためではなく、貴方のための「私」への捧げものとしなさい。「私」は「憐みの神」(God of Compassion)、「理解の神」(God of Understanding)である。その献身において「私」に単なる一枚の葉、花、または果実を、あるいは少量の水でさえ捧げる者たちからは、それらを「私」は喜んで受け入れ、かくして彼らの愛のある霊が光り輝く。というのも、そういったものは誠実なる心によって捧げられたからである。その像が如何なる姿であっても、純粋な心と良い動機をもって随意の神の前に来る者は、「私」の元へ来るのである。というのも、「私」は憐みと理解をもってその者に視線を投げかけるからである。私は人間たちの行いのみに関心を持っているのではなく、彼らの動機についても関心を持っている。中身のない身のこなしは無視されるが、良い意図と愛する心によって行われたことは、決して顧みられないことはない。」

「私は「隠された神」(Hidden God)であり、目的にかなうために隠されているのである。神秘で覆い隠され、「私」は死すべき定めたる者の惑わしの霧によって一層不明瞭となっている。「私」を見ることが出来ないので、人間たちは「私」が存在しないと言い放つ。が、「私」は貴方がたに表そう。人間は、そのこの世的な限界によって、全体のうちのただ微小な部分だけを見ているのであると。人間は幻影と欺瞞の奴隷である。人間が惑わしの元に生まれているにも関わらず、そしてそれは必要な状態ではあるのだが、人間は他の人間たちによって働かれた欺瞞によって更に苦しめられる。人間は、その大きさ故に、自分の上の大きなものを認識することができないけれども、同様にまた人間は、その小ささ故に、自分の下の小さなものを見ることが出来ない。最も大きなものから最も小さなものが現れて、そしてその最も小さなものから創造が起こった。そして、その一番小さなものの中に、偉大さと力が宿っている。というのも、その最も小さなものは、ほこりよりもずっと小さいが、それは世界を支えるものであり、暗闇を越えて太陽の如く輝くのである。それは人間の思考の届く範囲の縁に向けて広がって存在している。

原初において、全ての物は不可視なるものから発生し、最後には全ての物が不可視なるものへと姿を消す。が、その最後は霊の最後ではない。その不可視なるものより生まれたこの物質的創造の先の外部には、より偉大なる実体である、より高みにある永遠なる霊界がある。全ての物質的な物が終わる時、それは残るであろう。全ての上に時間を超越したものがあり、それは永遠である。そしてそこに「私」の住処があり、それは人間の最終の目的地であり、それを獲得する者たちは永遠の中に住むのである。「私」は「永遠なる神」(Eternal God)である。」

「「私」をその真実の存在、「生まれず創造されない者」(Unborn and Uncreated)、「始まりがなくそして終わりなき者」(Beginningless and Without End)、「全圏の主」(Lord of All Spheres)として思い描くことが出来る者たちはほとんどいない。「私」をその真実の姿として思い描くことが出来る数少ない者たちは、この世的な惑わしから解き放たれた自由なる霊である。湿った木材を燃焼させる炎から煙の厚い雲が沸き起こり広がるように、物質的世界もまた「私」より生じたのである。水たまりへと落ちた塩のひと塊が溶解してその後取り除くことが出来ないように、それにもかかわらず貴方が吸い出すその水のどんな一部分からでもそこに塩があるように、物質世界は「私」の全面的に広がる「霊」(Spirit)と共にあるのである。「私」は「偉大なる発光体」(Great Luminary)であり、永久不変なる閃光の源泉であり、それは物質中に閉じ込められて、人間たちの微睡んでいる魂となるのである。これらは、無意識のうちに導かれて、無意識なる思考の管理の元、五感へと展開している。感覚が収穫するものは、霊と共に去っていく。まさに香水が風によって運ばれるように、それは霊によって持ち去られる。「私」は「境なき者」(Boundless One)、「限界を超越した者」(The One Beyond Limitations)である。「私」は自由であり続け、そして創造的活動によって妨げられることはない。「私」は存在し、「私」は生命が進展するのを見守る。「私」は、生き物全てをもたらすために自然が従う過程を用意する。」

「その目を閉じていて自分が躓いているからといって不平を訴える地上の愚か者ども、暗闇を歩くことを選択した無知なる者ども、そして安逸と快適さの道を選択した無関心な者どもは、「私」に関する知識を何も有しない。彼らの望みは不毛である。暗愚を選ぶのは彼らであり、無知を選ぶのは彼らであり、無関心な惰性を選ぶのは彼らである。彼らが学ぶことは無益であり、彼らの思考は実りを結ぶことがなく、彼らの行いには目的がない。人間は無知と暗愚のうちに生まれついたとはいえ、同時に人間はそれらを追い散らす導きの光の相続人なのである。その光は手に取りさえすれば自分のものとなるのだ。それから、人間たちの間に目覚めた魂を持つ者たちがいる。彼らの支えは「私」自身の性質である。彼らは、「私の霊」(My Spirit)が、疲れ果てたり落胆したりした者たちに対して元気を回復させる、そしてその強さの永遠なる源泉として人間たちの間にあることを知っている。彼らは「私の霊」と調和しており、それ故に「私」を知っているのである。」

「人間たちは「私」を「闘いの神」(God of Battles)と呼ぶが、「私」はそうではない。というのも、善人たちは王たちが戦を宣言した時にお互いに戦うからである。人間たちは「私」を数多くのものとして呼ぶが、それによって「私」が、彼らが「私」がそうであると考えるところのものになることはない。「私」は究極的に全ての悪を正す隠された力であり、いつかは全ての不正を是正するであろう。「私」は全ての価値ある者たちのもとへ赴く。が、「私」が求めるのは、孤独なる者、役に立たない者、望ましくない者である。「私」にとって、落胆していて、困っていて、悲嘆に暮れていて、そして屈辱を受けている魂は、抗しがたい磁石である。「私」は道の末端にある歓迎の光であり、憐み深い沈黙のうちに見守っている仲間であり、理解のある友人であり、常に用意のできた腕である。「私」は貴方がたの心の中の平和の避け処を管理する「者」(He)である。」

「その霊を「私の霊」(Mine)と結合させる者たち、そして調和してはいるが「私の霊」と結合していない者たちに対しては、「私」は、彼らが持つものを増大させ、彼らに欠けているものを与える。「私」は全ての人間たちへ同様な表情を向ける。「私」の人間たちへの愛は依然として変わらないままであるが、「私」の大義に対して献身的に「私」と結びつく者たちは、真に「私」の中にあり、そして「私」は彼らの中にある。それは「私」の永遠なるそして変わることなき私に対する契約である。「私」と共に歩む者、「私」の大義に仕える者は、消滅することがないであろう。だから、貴方がたの霊を「私」と結合させ、貴方がたの信頼と信用を私に与え、そしてそのように調和的な関係で結合して、貴方がたは至高の目的地を知るようになるだろう。人間たちは自分たちの感覚を通して「私」を知ることが出来ないと言う。そして、それは真実である。というのも、「私」は人間たちの有限なる感覚の手の届かない、それを超えたところに存在するからである。人間の感覚は「私」を経験するための手段として意図されたのではなく、それらは物質世界を経験するためのものである。また、それらは制限的であり、それらが示すことよりもずっと多くのことを遮ってしまう。注3 にもかかわらず、人間たちは、その内部に 注4 「私」を知ることが出来るより卓越した感覚を有しているが、それは多くの人間たちにおいては休眠状態にある。「私」は「心の中の光」(Light Within the Heart) 注5、「全ての生物の意識」(Consciousness of All Living Things)である。「私」は、「意識の神」(God of Consciousness)、「静寂の中の聞き手」(Listener in the Silences)である。」

「「私」は人間のこの世的な感覚を通じて人間に対して現れることはない。というのも、それらは地上的な制限に縛られているからである。「私」は霊のものたる卓越した感覚、魂の感覚を通じて現れる。混じりけのない光が多数の色を隠しているように、「私」もまた人間たちの心の中に隠されている。ふいごで吹かれた炎から火の粉が飛んでいくように、「永遠なる炎」(Eternal Fire)からは生命の火花が飛び出して物質中で一瞬の間光を放ち、そして戻ってくる。太陽が熱を放射し、花が芳香を発し、ランプが光るように、人間の心は自分自身の霊的状態を作り出す。人間の目は小石、星、羊あるいは木を見るが、人間にとってそれらはいかなる形でも似たようなものに見えることはない。にもかかわらず、全てが「私」を源泉とする一つの流出する力の中に現れている異なった形式なのである。その流出する力は実体を生み出す下地を作り出し、それに形態のための基盤を与えた。「神聖なる霊」(Divine Spirit)の断片は、「神聖なる霊」が創り出したものを解釈するが、その現実においてそれを知ることは出来ない。というのも、物質中に覆い隠されると、それは微睡んでしまうからである。物質世界はより大きな全体の分離された一部分であるが故に、人間のこの世的な部分は、その無限の美しさ、あるいは際限なき至福の経験を完全に知ることを決して期待することが出来ない。人間の思考と概念の限界を越えた外部には、最も鮮明な想像でさえ届かない向こうには、その驚異と栄光がまさに絶対的な完全無欠へと広がっているのである。永遠が内部的な栄光の驚異を示し始める外部の領域に在ることさえ、覆い隠され続けている。人間の如何なる言葉も神聖なる物の真の性質を記述することは望むべくもなく、神聖なる者だけが神聖さを知ることができるのである。愛の鼓動を打ち輝くばかりに生きている心は、人間として人間に知られることは決して出来ない。が、人間が人間以上の存在となる時に、人間は帳の背後へと最初の一瞥を獲得することがで出来るのである。」

「天地創造の前、「私」は「孤独なる者」(One Alone)であった。私は思考し、その思考は力の命令となり、そして不可視なる物の虚空の中へ、それ自体はその時不可視なる物の一部であったが、実体の潜在能力が現れた。光がその力の元に生まれ、そして「私の霊」はその光の真ん中にあった。が、その光は昼間に照らす光ではなかった。天空は全ての物の基礎となり、物質がそこで次第に形成され、それが不可視なる物から外部へ突き通りながら絶えず濃密となっていった。それは名状しがたい状態から何かより固まったものへ、触ることのできないものから実体へ、ちぐはぐな実体から密度と形のある状態へと移行した。「私」は、光をもって、しかし形を用いずに、その名状しがたい実体へ、暗黒なる名状しがたい実体と結合して、濃密になるよう命じた。それはそのようになって、水となった。その後、「私」は水の流れを光の下の暗黒の上に広げて、その流れの周りに光の源泉を配置した。これはこの世的な視覚の光をもたらしたが、それは霊の光ではなく、力の光でもなかった。その時点において、世界が作られて、地上がその形を得た。それは流れの真ん中で興奮気味に眠っていたが、その流れは地上の水の流れではなく、そして地上の物質中の生命の始まりの前に起こったことであった。「私」は「天地創造の神」(God of Creation)である。」

「「私」の創造物の基礎には「真実」(Truth)と実在(Reality)があり、それらは「私」と共にあり、「私」のものである。が、それらは「私」の実体ではないし、地上で理解できるようなものでもない。それらは、不十分であり、不完全であり、それにより歪んだ描写を形成することが出来るに過ぎない人間の未熟な言葉では言い表すことが出来ない本当に偉大なるものである。単純な物事は人間の理解のためにいくつかの言葉で明確に記述することが出来るが、より偉大なる物事は、単なる言葉を通じて取り扱うのが益々困難となる。言い表すことが出来ないものを説明するのに、どのような人間の言葉を使うことが出来るのか?どのように地上的な人間たちの理解を超えた物事 注6 が彼らの理解の範囲内へもたらされることが出来るのか?その影の前に、映し出す光があった。その光はあまりにも明るかったので、もしその影が暗黒で覆われていなかったのであるならば、その光はその影を飲みつくしていたことであろう。人間の限られた言葉で超越的なものを説明したり記述したりすることを追求するのは、ただ不明瞭さと混乱へ導くだけであり、その言葉は理解不能な文を形作り、思慮のない人間たちはそれを支離滅裂であると言い放つであろう。それ故に、単なる言葉でつなぎ合わされた文の背後を読み取るがよい。「私」は、人間の地上的な限界によって人間から隠されている「知られざる神」(Unknown God)である。」

「世界は「私が存在する」(I AM)が故に出現して存在している。それは物質における「私」の反映である。人間がその影の出現によって影響を受けることがないように、「私」も同様に物質の創造によって影響されないままである。熱が炎から放たれてその本質と性質を含むように、それは炎そのものではないにしろ、また炎の実体でもないにしろ、同じように「私」の創造物は「私」と関係するのである。「私」は水面に映った像のようなものである。水はその反映を知ることが出来ず、あるいはその中にその像を見出すことは出来ないが、そのようなことは像の実体には何の影響もないし、その反映の事実についても影響はない。それは穏やかな日に澄んだ水面をのぞき込んだ一人の男がその中に自分の反映 注7 を見出すが如きものであるが、もし風が吹けば、その像は歪められるし、そしてもし太陽がその顔を隠すならば、その像は消失する。にもかかわらず、こういった影響のどれもが、像そのものや、その像を投影するものに触れることはない。風がやみ、雲が消え去って太陽が再び現れると、その歪みも惑わしも終わり、実体が再び反映される。「私」の創造物の中には、「私の霊」があって創造物を支え、そしてその「霊」は「私」の創造物と「私自身」(Myself)とを結合するものである。空気が静止しているときは、誰も空気を認識することはないが、その同じ空気がつむじ風となれば、人間たちはそれに対して全面的な注意を払う。「私」に関しては、全てが実体であり、一方人間については、全てが幻影である。が、人間は「私」を探求することによってその幻影を捨て去ることが可能であり、そしてそれによって人間は実在を発見することが出来るであろう。「私」は「反映の背後にある実在」(Reality Behind the Reflection) 注8 である。「私」は「自存なる原因」(Uncaused Cause)である。」

「内部にある光り輝く宝石から顔を背けて、分離した、答えることのない存在たる外部の神を求める者たちは、単なる小さな手回り品を探しているのであり、それと同時に既に自分たちの管理下にある極めて貴重な宝物を等閑視している。光の人々は光の幻を崇拝し、暗愚で無知なる人々は亡霊や暗黒の霊や夜の悪鬼を崇拝する。暗黒の信仰や自分たちの肉体的な欲望と倒錯した情念によって突き動かされて、決して「私」によって命じられたわけではない、恐ろしい耐乏や自らの手足の切断を遂行する者たちがいる。彼らは自分たちの体の中にある生命や霊を苦しめることを喜んでいる。彼らは本当に、無知の最も暗愚な形式で惑わされた犠牲者である。にもかかわらず、ある者たちは自分たちの痛みや苦痛から喜びを得る。そして、彼らはそのように続けると良い。しかし、そういったものは実に、不具な魂として評されると言っても差し支えない。ある者たちは邪悪さを罰し、善に報いる神々に従っている。そしてそれ故に、善へ向かう傾向があるのだが、存在せぬ神々に従うのは、愚かなことではないのか?全ての人間たちは、承知の上であろうとなかろうと、自分自身の霊的運命を選び取る。というのも、「法則」(Law)の元では、彼らの将来の状態は彼ら自身の手に委ねられなければならないからである。「私」は「法則を定めた神」(God Who ordained the Law)であり、人間が行うことができる如何なる事もそれを変えることはできない。「私」の愛だけが人間の救われることなき邪悪さの結果を和らげることができるのである。「私」は「変化せざる者」(Changeless One)である。「愛の神」(God of Love)は「復讐の神」(God of engeance)となることが出来ようか?復讐は何か「私」とはかけ離れたものである。それ故に、「私」が今日はあるものとなることが出来て、その後明日には人間たちが過ちへと陥るので、何か別のものになることが出来ると人間たちが信じるべきであるというのは、道理に合ったものであろうか?「私」の性質は人間の性質のようなものではない。「私は私自身の如きである」。(I AM as I AM)」

「「私」は人間たちの単なる形式的な行為や無意味な犠牲によって影響を受けることはない。明かりをともしたランプや蝋燭、人間による絶食や自己苦行がその人に有利なように「私」を揺り動かすこともない。「私」は贈賄を受けることもない。というのも、「私」は「神」であるからである。不注意に炎を取り扱って火災を得る者はその炎を責めることはできないし、同様に速い流れへと入っておぼれる者はその流れを責めることは出来ない。法則というものがあり、それを破るとその後に続いて報いがもたらされるのである。自分自身の行いによって自分たちに苦痛や受難をもたらした者たちは、後に起こる事に対して「私」を責めることは出来ない。そういったことは、たやすく理解可能なより低級なる法則の結果であるがそれらの上に、それ程不可解なわけでもない「偉大なる法則」(Great Law)が存在する。その法則の元では、行いとその結果の間の関連はそれ程明確なわけではない。人間たちは自分たち自身の頭上に災難や苦痛をもたらして「私」を責めるが、にもかかわらずその過失は彼らの中に存在し、その原因は彼ら自身の非行や誤解にあるのである。人間たちは自分たちが蒔いた通りに刈り取り、そして「私」はその種まきや刈り取りには関与しない「肥沃な圃場」(Fertile Field)である。人間は自分自身の主であり、自分自身の運命の支配者である。人間は、自分自身がそのような力と接触する努力を費やすか、助力に値する場合以外は、如何なるより大きな力からも助力を期待することは出来ない。人間の全てあるいは人間がなるもの全ては、自分自身の努力と行動の結果、またはそれが欠けている結果である。「私」は人間を、単なる人形や乳飲み子としてではなく、人間として造った。「私」は「法則の神」(God of Law)である。私は、「信念の固い者の神」(God of the Stalwart)である。」

「人間は神性の相続人である。そして、神性への道は霊性である。人間は、自分自身の行動と努力を通じて以外に霊的となることは出来ない。人間は、手を取って導かれることによって、あるいは懲罰の恐怖を通じて、あるいは報酬への期待を通じた貪欲さによってそれを達成することは出来ない。神性の運命へと入る者は弱虫ではなく、その者は困難な石で覆われた道を歩いてきたであろう。」

「人間には「私」を知るための二つの方法がある。人間は、自分自身の霊的覚醒を通じて、あるいは「私」に霊感を与えられたしもべによる道徳律と神聖な目的の継続的な霊示を通じて「私」を知ることが出来る。霊的に覚醒した自己にを通じて「私」を知る事は確信的な方法であるが、その厳粛さや規律正しさを忍ぶことができる者はほとんどいない。」

「人間の霊が覚醒していない時、人間は、自分がその一部分であるところの、自分の中の偉大なる自己を知ることは出来ない。自分の真の性質を知らず、そしてはっきりと見ることが出来ない状態で、人間は物質的惑わしによって目を閉ざされている。太陽を決して見ることがない夜の生き物は、月が上なる夜空で最も明るく輝くとみなさないであろうか?霊的無意識の暗愚の中を歩く人間についても同様であり、人間は「私は肉体であり、肉体が私の全存在である。」と言い、そしてその信条の惑わしの中で、人間は物質に束縛される存在の中で捕らわれの身となるのである。夜の生活に束縛される生き物のように、それは昼間の明るさの中で繁栄しているものの華々しさを知ることが出来ないのであるが、霊的無知の暗愚に束縛されている人間に関しても同じことが言えるのである。」

「夜の影が侵入者と間違えられるように、あるいは蜃気楼が澄んだ水溜りと間違えられるように、霊的に未発達な人間は物質的肉体を生きている存在の全体と誤解する。揺らめく熱のかげろうが放水のように見えるように、霊的に覚醒していない者たちには外部的な肉体が存在の全てであると見えるのである。ボートで動いている人にとっては、もう一つのボートが静止して停泊しているのは、その上の人には自分自身が静止し続けているように見えるのに対して、しばしば動いているように見えるであろうが如く、覚醒していない霊は見せかけに欺かれて、この世的な肉体が存在の全てであるとみなすのである。実際には雲が空を飛んでいるにも関わらず、まるで月そのものが天を横切って疾駆するように見える。我々にそれが真実でないことを告げるのは、上なる天空に関して持っている我々の知識と経験のみである。このようにして、自分の無知の内に、この世的な肉体が存在の全てであると考えるのは、霊的に覚醒していない人間なのである。そして霊的な領域の知識や経験を全く持っていないので、惑わされるのである。実のところこの世的な肉体が存在の全てであるとする、人間の信仰の全ては、無知の暗愚のうちに作られたものである。人間は人間たちのやり方において賢いかもしれないが、霊の光の元に示されたより高く、より神々しい事柄については完全に無知であり気づいていないのである。」

「惑わしに捕らわれている人間は言う。「もし私が知らない私の体の一部である他の体が単にあるならば、それは本物であるはずがないし、私がそれを知る事は出来ない。私の目は絶対確実な案内者であり、丁度そのありのままに物を見ている。そして私が経験することが出来るどのような感覚も、その源は私のこの世的な存在のうちにある。私は自分の体の子である。」そのような人間は、夜の生き物のように、あるいは蜃気楼を見る者のように欺かれている。蜃気楼を見る目は完全に信頼できようか?光線の中を漂う埃は軽いものではあるが、そのような物が人間の体を作るレンガとなり、それらを固くしっかりと、実在する物のための現実離れした物として、人間の自己全体のためのこの世的な肉体として見せる核心なのである。惑わされた人間は自分の存在の霊的部分とその要求を無視する。そのような者はこの世的な肉体を大事にするが、地上的な喜びと共にその望みを満たす。蚕のように、その人間は自分自身が作った繭の中に捕らわれの身となる。この世的な肉体に過度の世話を惜しまず与える者は、自分自身の霊的無知と欠点を呈しているのである。無知の暗愚たる存在から抜け出すためには、霊的意識の光の中の生命の燦然たるを知るには、人間はまず最初に自分の霊を目覚めさせなければならない。その方法によってのみ、人間は自分の真の性質を知る事が出来るようになるのである。」

「自分自身に問いかけよ。「私は何者なのか?私の中で何が本物なのか?何が人間全体を構成するのか?私は本当に、この肉の塊に過ぎず、取るに足らぬ、未完成の、無益で非地上的な理想と現世的な無慈悲や欲望の間で揺れ動いている不安定な存在に過ぎないのか?あるいは、私は地上的な感覚では見出すことの出来ないより偉大なる何かなのであろうか?私は本当に、その源泉だけから地上的存在の世俗的な要求を超越するところの理想と善がやってくることが出来る、何か神聖で光輝なるものに似通っているのか?」自分自身に問いかけよ、孤独の内に。さすれば恐らく貴方は答えを得ないことはないであろう。「私」は「静寂の神」(God of Silences)である。」

「人間たちの言葉は、人間が本当は何であるのかを正しく表現するのに不適切である。人間の本当の性質の知識は、覚醒していない霊の理解を越えたところにある。人間の手の届く範囲にある自然の恵みは無制限である。というのも、それは全ての物の全体だからである。見せかけの上では死すべき定めたる者であるということが実は不滅であるという希望と信仰において、人間は誤り導かれてきたというわけではない。霊は人間たちを誤り導いてはいない。人間たちは自分自身の目によって欺かれていて、誤り導かれるので、実在において物のあるがままの姿を見ることが出来ない。地上的な存在を通じて人間たちが見たり経験したりする物事の全ては、幻影の帳の中にある。人間は、自分の目が物のあるがままを示していると考えるかもしれないが、いかなる地上的な目も物が実際にはどのようであるかを決して見ることは出来ない。物というものは人間に対し、自分自身の肉体の色のついた歪めさせるガラスを通じて現れているのである。霊的には、人間は総じて、自分の想像の枠組みから自分の王国を築き上げる狂人とほとんど変わるところがない。人間の周囲の溢れんばかりに存在する生命は、歪んだ像として見られ、その歪みはその人間自身の欠点が与えているのである。にもかかわらず、そのようになるように運命づけられている。というのも、人間は、その人間にとってかなう条件によって取り囲まれているからである。それがそうであるのが何故なのかを見出すのは人間であり、それを見出すことによって、人間は自分自身を見出すことになるであろう。「私」は「真実」(Truth)である。「私」は「実在」(Reality)である。」

「この地上的な生活は、「私」が貴方がたに与えたものであるが、その一瞬の状況を見るのではなく、無限の光に照らして見るべきである。全ての苦労や幻滅、無益さ、見放された望み、そして浪費した行為、抑圧や不公平は、目的がなく存在しているわけではない。その目的は人間が理解することが出来るどんな物事をも越えたところにあり、そして人間の考えが把握出来るよりも非常により大きなものである。本当に覚醒した人間は、人間たちの間でただ一人、人生の目的と到達地点への如何なる洞察をも得ることが出来るのである。」

「こういった事は神聖なものであるが、それらはただの人間の言葉でのみ書き留めることが出来、そうしてこの世的な弱点を持つ物事へと引き下げられることになる。単なる言葉は読まれて、言葉によって形成されるパターンは「真実」や「実在」に遠く及ばないことになる。果実の味や花の香は、それらを読むことによって知ることが出来るのではない。果実は食べなければならないし、花はその匂いをかがなければならない。ただ「私」と結合することによってのみ、霊が「霊」(Spirit)と通じ合って、「私」の実在を見つけることを立証することが出来るのである。にもかかわらず、事物はありのままであるので、「真実」は常に人間としての人間から隠されていなければならない。が、仕事をするしないにも関わらず労働の対価が支払わられるのであるならば、誰が働くであろうか?そういった事が人間に示されたとしても、無知なる人間は偉大なる事物を理解しようとはしないであろうし、それ故にその光はその者のためのものではない。不真面目で浅はかな、気晴らしや楽しみを追い求める者は、こういった言葉にほとんど慰みを見出すことはないであろう。本当に啓発された人間は既に、「真実」について何かを知っているであろうし、そしてそれ故に、それをより熱心により高い道へと沿って探求するであろう。だから、これらの言葉は、まさしく自分自身の欠点や無知を知っている誠実なる探求者のために与えられるのである。そういった者たちはその思考が偏見によって包まれておらず、自分自身の意見に固執していない。というのも、人間たちの内で誰が自分の意見において最も裏付けをとっているというのか?誰が最も断定的な態度で事物を述べ、最も大きな声で話すというのか?それは最も無知な者のことではないのか?「私」は誠実なる探求者が導かれないようにするつもりはない。「私」は「道中の光」(Light on the Path)である。」

「「私」は人間たちの心をよく知っており、人間たちは絶えず自分たち自身を欺こうとしている。人間たちは他の人たちの誤りや愚かさがはっきりと分かるが、自分たち自身の事については見えていない。その正しさの知識が口ごもった言葉であり、祈りの繰り返しである者たちがいる。彼らの魂は利己的な望みで歪められており、また彼らの「天国」とはそういったものを成就することである。彼らの祈りは、楽しみや権力、そして霊を進化させる事物から自由となる事を嘆願することである。楽しみや権力を愛する者たちは、彼ら自身の傾向の道を辿ることを喜び、彼ら自身の望みの信条を築く。彼らはより峻厳な真実の道を辿るための勇気も意思も持ち合わせていない。このような者たちとの交友を避け、貴方がたの心を、報酬よりも取り掛かっている仕事に向けよ。「私」は「知る者」(Knower)である。「私」は「報いる者」(Rewarder)である。」

「あたかも他の人たちに全く関係のない、独自のことと言わんばかりに、もし人間が自分自身の利己的な目的のために一つの事や一つの目的地に自分の注意を全面的に向けるのであるならば、その者は無知の暗愚の中を進んでいるのである。もしその者が、結果やどこへと至るであろうか、あるいはそれが他の人や自分自身へともたらす害悪を考慮しないで、混乱した頭で仕事を引き受けるのであるならば、それは悪の所業である。いつ進むべきであり、いつ留まるべきであるか、いつ話すべきであり、いつ黙っているべきであるか、何をなさなければならないか、何をやらずに残しておかねばならないかといった事を知る知恵というものがある。その知恵はまた、恐怖または勇気によって定められる限界、何が束縛をそして何が自由を決めるかについても知っている。それは、もし人間が求めさえすれば、「私」が人間の自由に出来るように配置した知恵であり、霊の真実の知恵である。この明確な知恵に対するのは、偽物の、惑わしから生じた暗愚によって不明瞭となった、人間が生み出した知恵である。そこでは、間違ったことが正しいことと考えられ、誤謬が「真実」として通用し、事物はそのありのままではない形で思い描かれる。気楽な暗愚の中に住む正しいことを知らない者たちは、「真実」の光によって示される挑戦の現実によってかき乱されてはいないのだが、真の価値の如何なる理解にも欠けている。彼らにとって一杯の不幸以上の何ものでもないように見える事物は、実際は不滅なるワインで満たされた聖杯なのである。感覚の現世的な渇望へ迎合することからくる空虚な楽しみは、最初は一杯の甘味のように見えるが、最後には苦しみの醸造物を抱えていることが見出されるのである。正しい事を行う者は、「私」のためではなく、自分自身のために行っているのである。その者が便益を得る者であり、「神」ではない。悪い事を行う者は、そのために自分自身を苦しめるのであり、その者は受難者である。正しい事を行う者は、自分自身の善に対して 注9 それを行うのであり、邪悪な事を働く者は、自分自身の損失に対してそれを行うのである。正当な創造においては、そのやり方が悪である者たちが、善良な人生を生き、善い行いを実行する者たちと同じように取り扱われねばならないということは、有り得ない。利己的なる者たちの運命と利己的でない者たちの運命は、似たようなものとはなり得ない。「私」は「正義の神」(God of Justice)であり、「法則の主」(Master of the Law)である。」

「人間の霊はあらゆる事を行うための潜在的な力を持っており、地上的な限界を突破することさえ出来る。覚醒した魂は望むことはどんなことでも実行できる。人間は自分自身の進歩のための環境を用意する。現在あるように、過去からの数えきれない意思がそれを形作ってきた。肉体が朝目覚める時、それは人間が自分の住居へ入るようなもので、それは認識の場所となる。魂は物質中で活性化し、その状態で貴方が聞き、味わい、匂いを嗅ぎ、そして感じるのはその魂である。物質的には、死人の耳は聞く為にはまだ完ぺきな状態であるが、聞き手、解釈する者が居なくなってしまったのである。死体の目は盲ではない。が、その目を操っていたものは、もはやそこには居ないのである。」

「魂が人を惑わす物質環境へと外部だけを見ていて、そしてそこで見出される、より基礎となるその肉体が親和性を見出す物質的な楽しみで満足している限り、その魂はより大きな霊の領域から切り離され続けるのである。その魂は自分自身を物質に結び付け、その存在の静寂たる深みの中に常に存在するより大きな楽しみを見出しそこなうのである。人を惑わす環境における経験によって人間の態度を益々固めさせて、死すべき定めたる人間は望むものは全て自分の外部に存在すると確信するようになる。人間は、満足は物質的な幸福を増進する物を得ることから得られると結論を下す。それは気の転倒した人間の愚行である。しかしながら、均衡が鍵となる語である。というのも、物質的な事物からすっかりとそっぽを向く事は、同様に愚かであるからである。人間は地上的な物で出来ている。なぜならば、人間は地上で生きて自分自身を表現しなければならないことが意図されているからである。同様に人間は、地上的な条件や地上での経験を通じて、自分の性質を発見しなければならないことも、意図されている。」

「しかしながら、「神聖なる火花」(Divine Spark)が霊を灯さなければならない。霊は息苦しさを感じてはならない。均衡が理想的であり、全体が完全に内部へ向かっても外部へ向かってもならない。人間にはその肉体が必要であり、それを退けてはならない。そして、もし肉体を支えるのに人間の骨折りが必要であるならば、人間はその喜びを楽しむのに値すると言えないであろうか?ここでも、単なる正しい均衡の問題となるのである。人間は、人間の魂が間接的にその肉体に反映されているのと同じように、「私」がただ間接的に反映されている物質世界の顕現の海の中を生きている。もし人間が肉体の目以外のもので何も見えないのであるならば、その者は「私」に気づくことは出来ない。というのも、「私」は人間の視界を越えたところに居るからである。「私」は「物質の背後に隠された神」(God veiled Behind Matter)である。「私」は「霊の神」(God of the Spirit)である。」

「けれども、人間にも見ることが出来る、宇宙の帳を突き抜く幻がある。その幻は、全ての不明瞭さから解放されていて、根本的な願望や恐れの暗愚の影によって、また不安定な感情や恥ずべき動機によって汚染されていない。それは人間が新しい能力、新しい感覚を開花させる時に見える幻である。それは光輝なる内部的な幻である。霊的光の波が人間を包み込み、単なる言葉では名状しがたい神秘的な力が、人間の霊の広がりを流れ星のようにサッと通り抜けていき、燦然たる光をもって人間の内部存在つまりその魂全体に溢れ出る、にわかに照らし出す閃光を与える。その光輝の中で、人間は、短い瞬間、壮麗なる幻を一瞥することを認められる。人間はその後、無限へと届く紐によって、宇宙の生命ある心臓と結合される。如何なるものも人間には知られていない。人間の概念の如何なる表象も人間存在全体へと漲る喜びを表現することは出来ない。そのような状態は、ひっそりした静穏にある霊において経験することが出来る。その状態は、全ての制限の限界を張り裂く事が出来、全てを取り囲む圧倒的な愛の感覚の中でそれ自体を現す。底の知れない静かなる瞑想の海に夢中になり、その者の肉体は内部からの光による放射で輝き、そしてその周囲全てが明るい霊的輝きに浴する。一度神聖なる通信状態となると、そのような覚醒した霊たちは至高の喜びを知るようになり、二度と再び地上的な不幸の帳を通じて歩むことはない。真に覚醒した魂は、肉体的な欲望や地上的な悲嘆を超越しており、その者の愛は「私」の全創造物の如きであり、かくして「私」への至高なる愛を現すのである。その愛をもってのみ、その者は「実際」に「私」を、そして「私」が「誰」であり、「何」であるかを知るのであり、そして「私」を「実際」に知って、その者は「我が全存在」(My Whole Being)にあずかるのである。「私」との結合を望む者たちはまず最初に自分たちの心の中に「私」のための住処を用意しなければならない。しかし、純粋でない者たち、「私」のために戦わない者たち、愛の修練の元苦しんで来なかった者たち、そして知恵のない者たちは、どれだけ努力をしようとも、結合を得ることは出来ない。「私」は「明らかにする神」(God of Illumination)であり、「私」は「啓発する神」(God of Enlightenment)である。」

「貴方がたは、人間がついにその目的地へ到達した時の、人間がその神性の相続財産の一部となった時の、人間の究極の状態を知りたいと思わないのか?それは、地上に束縛されて存在している間にその者が考えることが出来るどんなものをも超越した光輝の状態である。その者の意識は拡張してあらゆるものを、かつて存在したもの、これから存在するであろうものの全てを取り囲む。その者は全てを見る。その者は全てを知る。その者は全てに存在し、また全てを包含する。そういった事が、知覚の無限の力を通じてその者に訪れるが、その者はそういった力の全てよりも上なる者となる。その者は全てを超越しており、けれども全ての中に存在する。その者は物質の領域を超越しており、全ての制限から解放され、それでもその者は物質的な喜びが与えられないわけではなく、もしその者がそのように望むのであるならば、物質世界に再び現れる。その者の思考は創造力を有する。その者は「光の中の光」(Light of Lights)を持つ者であり、その「光」は視覚を超越している。その者は「私の実体」(My Substance)の相伴者であり、永遠なる「我が」息子であり、永久不変の生命の継承者である。「私」は貴方がたの「神」であり、「人間の父祖」(Father of Man)である。」


脚注

注1:原文は、"bis life"。明らかに、"his life"であろう。ここでは「自分の人生」と訳出してある。

注2:原文は、"t his own welfare"。これは"to his own welfare"のことであろう。

注3:原文は、"shutting out far more man they reveal." ここで"man"は明らかに意味不明。"far more"の後にあるんだから、"than"と解釈するのが適切であろう。

注4:原文は、"Yet men have within mem..."。"mem"は"men"の誤植であろう。

注5:原文は、"Light Widiin the Heart"。"widiin"ではなく、"within"であろう。

注6:原文は、"How can tilings beyond the comprehension..." 。"tilings"ではなく、"things"であろう。

注7:原文は、"bis reflection"。明らかに、"his reflection"であろう。ここでは「自分の反映」と訳出してある。

注8:原文は、"Reahty Behind the Reflection"。"Reahty"ではなく、"Reality"であろう。

注9:原文は、"to bis own good"。bisではなく、hisであろう。ここでは、「自分自身の」と訳出してある。

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