これは、 特にその教義上の見地から、本書を詳細に研究せずして、そして西暦紀元前の最後の二世紀に渡るユダヤ人たちの民間の理解や教義の様相をどの程度描写しているのかを知る事無しに、完全にその真価を認める事が出来ない題目である。ここでそれを行う事は、恐らく遥かに広範に過ぎる研究を伴うものとなるであろう。研究されるべき多くの点の幾つかを簡単に述べるのみで十分に違いない。それらの内から、本書がキリスト教の起源の研究のためにどれ程重要であるかが分かるであろう。チャールズは、「第一エノク書の新約聖書への影響は、他の全ての外典や偽典をひとまとめにしたものよりも大きいものであった」と述べる。更に彼は、「語法もしくは考え方においていずれかが第一エノク書の一節に直接的に依存し、またはその説明となっており」、また第一エノク書の中の種々の教義が「関連する新約聖書の教義の形成において疑う余地のない役割」を有していた事を示すそれ以上の一覧と併せて、おそろしく多数に渡る新約聖書の一節の一覧を挙げている。次の一節は、既に何度か参照されているチャールズの著作において研究されたはずであり、しかもそれらが最も興味深い研究である事が分かるであろう。まずp.95〜103。そして、これらと併せてエノク書のp.103〜110の神学理論に関する節が読まれなければならない。大きな価値と重要性を有するもう一つの本は、同様に既に引用されているが、バーキットの「ユダヤ教とキリスト教の黙示録」である。第一エノク書と福音書の主題を扱っている部分において、この著者は次のように指摘する。前者(第一エノク書)は「人間の歴史に『悪』が存在する事を説明しようとする真剣な試みを含んでおり、そしてその試みは我々の注意に値する。何故ならば、それは要点において福音書、特に共観福音書にて前提とされる見方であるからである。貴方がその真の相関関係においてマタイ、マルコおよびルカによる福音書を理解するのは、貴方がそれら福音書をエノク書の背景と対照して研究する時である。このように言及するに当たり、私は、それら福音書が我々に伝える内容の重要さを損なう意図を有しない。それどころか、それは馴染み深い言葉をそれらの正しい位置付けへと据える。実際に、最もよく知られたイエスの言葉の幾つかは、今やユダヤ教やキリスト教によって等しく忘却されてきたにも関わらず、もしミドラーシュとして見なされるならばそのありのままの形で、ガリラヤの預言者の話を聞いた者たちに馴染み深かった言葉や観念の上にのみ現れる、私にはそのように見える。」(p.21)その後彼はマタイによる福音書第12章 43〜45、ルカによる福音書第11章 24〜26からその実例を提示した。より一層大きな関心は、第一エノク書第62章とマタイによる福音書第25章 31〜46の間の関連に関する彼の見解である。彼は、「エノク書における類似は、マタイによる福音書から引用した場面の中において前提とされている。」と確信している。後に続く議論の全てが読まれるべきである。
キリスト教の起源の研究の目的でこれらのエノクの書の重要性を認識する為に探求するにあたり研究されるべき特別に興味のある点は、もちろん悪魔学のテーマと将来の審判を含む悪の問題、救世主と救世主の王国ー肩書「人の子」は特別重要であるがーそしてキリストの復活にある。もちろん、エノク書の研究においてそれ自体が示唆するであろう他のテーマも存在する。
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