初めてエノク書を精読する事となる読者は、自分にとって奇妙でつまらなく見える多くの事を見出すであろう。しかしながら、読者はそれによって思いとどまってはならない。というのも、そのうちに読者は、多くの視点から本当に価値あるものを間もなく見出すであろう、この書の他の部分に達するであろうからである。しかし、より魅力に劣る部分に関してであっても、それらを注意深く研究するならば、それらが表面上に現れるよりもより多くの重要なものを含んでいる事を読者は見出すであろう。あいにく、始めの部分(第1章〜第36章)には、これは当然最初に読まれるものであるが、書全体の最も重要度の低い部分が多量に含まれている。いくつか節はの嫌悪感さえ催させるものである。一部の「ノア」断章やその他の断片(以下を参照)を除いて「エノク書」中に収録された、少なくとも四つの極めて独立した書があるという、既に言及された点を思い起こす事は適切である。学生は、それ故に、これらを分割された作品として扱い、その様なものとしてこれらを読む事が求められる。たまたま最初に配置されている書、とりわけ最初の三十六章はすっかりと塊を為している訳ではないが、その書から始める理由は何もない。 注1 が、いずれにせよ、異なる各書を読み始める前にその内容の一般的概念をいくらか得る事は、非常に役に立つ事が分かるであろう。その目的の為に、各書の簡潔な梗概を以下に示す。
第一書 エノク書(第12章〜第36章) この書は「エノクの夢の幻」にて始まる。その夢においてエノクは、天界の見守る者たち、すなわち彼らの天界の住処を離れて人間の娘たちと不義を犯す天使たちの事をとりなすよう依頼される。彼はその堕落せし天使たちが述べる嘆願(「書記官エノク」の肩書と比較せよ)を全部書き出し、引き下がって回答を待ち受けていると、それは彼へ向けた一連の幻として届く。これらの幻は、理解するのがまったく簡単な訳ではない。それらは明らかに矛盾しており、いくぶん支離滅裂である。ほぼ確実に、伝達中にその文言は損傷している。いずれにせよ、その嘆願は退けられた。エノクは、彼がその幻で教えられたが如き破滅が彼らの運命となるであろうと、堕落せし天使たちに宣言する。彼が彼らに取り次ぐよう命じられたお告げの最後の言葉は:「お前たちにやすらぎは無い」(第12章〜第16章)。その次に、エノクが辿ることになる、光の天使たちによって催され、地上のある部分と冥土を通じた別の旅が続く。第一の旅(第17章〜第19章)の話しの後、数にして7人の大天使たちとその任務の簡潔な列挙がなされる。第二の旅にて、堕落せし天使たちの最後の刑場が描写される:「この場は天使たちの監獄であり、ここで彼らは常しえに閉じ込められるのである。」そこからエノクは冥土へと連れて行かれ、その後は西方へ。彼はそこで天界の綺羅星を見る。次いで、その天使たちは彼に「七座の荘厳なる山々」を案内するが、その頂きの一つには神の玉座が鎮座している。彼はまた生命の樹をも見るが、それは荘厳なる最後の審判の後に、信心深く高潔なるものたちが賜るものである。そこから、彼は地上の中心へと戻って来て、「祝福されし地」エルサレムと「呪われし谷」を見る(第21章〜第27章)。この書は、東方、北方および南方への他の旅の断片と見られるもので結ばれる。ここで特別重要なのは、「義なる園」そして「知恵の樹」に関する言及である(第28章〜第36章)。
これらの章に書かれた多くの事は要領を得ず、また退屈なものの様に思われる。が、我々は、それらすべての背後に存在する意味について心に留めなければならない。かの堕落せし天使たちは地上へ罪業をもたらしたと考えられていたのであり、黙示録の作者たちは、この世界の邪悪さのすべてが彼らに遡っていることを突き止めているのである。この罪業の原因は、真に義がその目的に達するところまで来ることが出来る前に、完全に撲滅されねばならぬ。それ故に、この黙示録の作者は、堕落せし天使たちの最終的な懲罰の場について長々と細部に渡って描写する時に、実用的な意図を目論んでいる。というのも、そこは、この類の罪業に従うところの下々の実践者であるすべての者たちもまた、やって来る場所であるからである。彼はまた、義なる者たちの為に用意される至福の住処について、驚くほど嬉々として語る。これらすべての描写が、疑いなく、その大部分を民間伝承に基づいて、この黙示録作者の想像の所産から組み立てられたという事は、彼の時代の人々に対してその実用的価値を減じる事は無かった。彼は、絶対的なる確信を持って最終的な罪悪の打倒を楽しみに待つ一人の義の伝道師であった。そして、彼の想像力のすべてに、その原動力として、罪悪を制した義の勝利への熱望と信念がある。似たような意見の者の一人が、彼の書の一種の序文にて、次の意味深い言葉を、後に書いた。これはこの書の教義の本質を概括するものである:
そして堕落せしすべての魂を滅ぼし給え、そして見守る者たちの子らをも。何故ならば彼らは人間に悪を為したからである。地上のすべてから一切の悪を滅ぼし給え。そしてあらゆる悪事を終わらしめ給え。そして義と真理の苗を現さしめ給え:そしてそれは祝福であると分かるであろう:義と真理の業はとこしえに、真(まこと)と歓喜の中に植え付けられるであろう。
第二書 寓話(第37章〜第71章) 三つの寓話、即ちたとえ話がある。そしてそれらすべてには、その前の書におけるのと同様に、その基礎をなす考えとして悪の滅亡と義の勝利がある。が、ここでは幾つかの新しい、そして重要な要素が導入され、それがこの書に特別な意義を付与している。
第一の寓話(第38章〜第44章)は、邪悪なる者たち、そして特に地上の王たちや権力者たちに対する来るべき審判についての予言である。他方では、この黙示録の作者は、絶えず「霊の主」ーこれはこの書にて神に付けられる通常の称号であるーを賛美する義なる者たちの住処にして安息の場を、その幻視において見る。ここで「選ばれし者」(ルカによる福音書第23章 35と比較せよ)への最初の言及が現れる。霊の主の来臨に際して、四人の大天使たちと無数の他の天使たちの一団もまた参集する。ここで彼は天界の数多くの秘密について知る。知恵の書(第42章)の断章が、それは伝道の書(第24章)中の一部の節を思い起こさせるが、その秘密の途中で出現するが、それは明らかに場違いなものである。第二の寓話(第45章〜第57章)では同様な論題を扱い、それをより展開させていく。特別重要な事としては、選ばれし者が判事(第45章 3)として栄えある御座に腰を下ろしていて、また彼の肩書「人の子」(第46章 2)について言及されている事である。義なる者たちの正当化の思考は、邪悪なる者たちへの復讐の時の彼らの喜びによって損なわれる。特に印象的な節は第48章 1〜7で、その人の子と霊の主の立会のもと、神聖でかつ選ばれし者たちの為に確保してある、尽きる事なき義の泉について語っている。この黙示録の作者は、異教徒たちの尚一層の悔い改め(第1章)、普遍主義的で重要な兆候について予言し、そして注目に値する節において死者の復活について語っている:
そしてその頃には地上もまた、それに託されてきたものを返還し、
そして冥土もまた、それが受け入れてきたものを返還し、
そして地獄は、それが負うところのものを返還するであろう。
この寓話は最後の審判の説明にて結ばれ、イスラエルに反抗する異教徒の勢力に対する最後の戦いに関する節(第56章 5〜8)と、ユダヤ人の離散からの帰還(第57章)の二つの短い節がこれに続くが、これら二節は、その元の場所にあるようには見受けられない。 第三の寓話(第58章〜第71章)は明らかに、多くの部分で異質なる題材の割り込みを被っていて、また恐らく不完全なものである。その主な論題は、すべての肉なる者、そして特に地上の貴人たちに対する最終的な最後の審判であり、その判事は人の子である。義なる者たちへの将来の報いについて語るいくつかの節は、美点で満たされている。以下は十分引用に値する:
そして義なる者たちと選ばれし者たちは地上でその身を起こし、
そしてそのうなだれた顔つきの有様は止むであろう、
そして彼らは栄誉の長衣をその身に纒い、
そして彼らは霊の主からの生命の長衣となるであろう:
そして汝らの長衣が古くなる事は無く、
また汝らの栄華が霊の主の面前を通り過ぎる事は無いであろう。
多量のノアの書の断章がこの寓話の途中に出てくる(以降のp.26を見よ)。この寓話の結びの言葉は、第69章 26〜29に収められている。エノクの最後の変容(第70章)の話、そして二つのエノクの幻視(第71章)は、この場所に相応しくない。
第三書 天空の星々の推移の書(第72章〜第82章) 第74章 12にて次のように書かれている:「そして太陽と星々は、それらが久遠に渡り一日たりともそれらの位置を進めたり遅らせたりする事が無く、そしてその暦年を364日の完璧な正しさをもって完結するように、すべての暦年を正確にもたらす。」 注2 これはこの書の基調、即ち、時刻は太陽によって計算すべきであり、月によってではない(これについては前述の著作者性の項を更に参照せよ)、という考え方を提示している。第80章に達するまでは、この書は極めて退屈である。それは、太陽、月、星々そして方位が支配されるところの法則を詳細に渡り教えると主張している。その法則はウリエル、「聖なる天使」によって黙示録の作者へと説明される。世界の四郭の地域、七座の山々、そして七本の河もまた取り扱われる。「この著者は、ユダヤ教の概念と信仰によって彩られた自然科学上のこと以外、他のことには興味が無い。」 注3 しかし、第80章 2〜8に達すると状況が異なる。これらの詩では全体の調子が様変わりし、そこでは人間たちの罪業により、月と太陽は彼らを惑わせようとすると述べられる。この書のこれまでの章の中にて完全に欠落していた倫理的な考えが、斯くの如く持ち込まれる。これはまた第81章についても当てはまる。恐らく、これらの章のいずれもが元来、ここに位置していなかったのであろう。
この書の執筆者が主張する1暦年に対する364日の割り当てに関しては、チャールズは次のように述べる。「彼は、より良い何かを理解する為に全く不適当であった事を通じてのみこれを為した。というのも、彼は太陽年が365¼日である事をよく承知していたに違いないからである。ギリシャ周期についての彼の知識はこの・・・を示している。暦年を364日とするこの著者の計算方法は、部分的には異教徒の体系に対する彼の抵抗によるものであり、また部分的には364日が7で割り切れ、かつ正確に52週となる事実によるものであると見て差し支えない。」 注4 ともかく、彼は、パリサイ主義的な時の計測方法である太陰年に反対しているのであり、これがサドカイ人の著作者性を支持する重要な事項となるのである。この書がマカバイ戦争後の時代に書かれた事は留意されるであろう。サドカイ派とパリサイ派がお互いにはっきりと対立した派閥として出現したのは、マカバイ闘争後であった。 注5
第四書 夢幻(第83章〜第90章) この書は二つの夢幻より構成される。第一のものは、罪悪を理由とする洪水によって世界へもたらされた天罰を取り扱う。罪悪の源は、またもや堕落せし天使たちに帰せられる。この夢幻は神を称える讃歌で結ばれており、そこではすべての生き物が滅ぼされる事が無いように祈りが捧げられている(第83章〜第84章)。第二の夢幻はずっと長尺である。救世主の王国の創設へと至る世界の歴史を手短な概要にて提示する。まず、族長たち。これは雄牛やその他のものによって象徴されている(第85章)。次いで、かの堕落せし天使たち。これもまた象徴的な言い回しで描写され、更に彼らの懲罰について描写される(第86章〜第88章)。歴史がその後に進行し、ノアの時代からマカバイ戦争へ至るイスラエルについてより具体的に取り扱う(第89章〜第90章 19)。夢幻全体を通じて象徴的な言い回しが使用されている。イスラエルでの信心深さは羊として言及され、同時に異教徒たちは野獣や猛禽として象徴化されている。 夢幻は、かなりおなじみの終末論的論調で結ばれる。邪悪なる者たちの審判と糾弾、新しきエルサレムの創立、イスラエルに従属するようになる異教徒たちの改宗、散り散りとなったイスラエル人たちの集結、義なる死者たちの復活、そしてメシアの来臨に伴う救世主の王国の立ち上げである(第90章 20〜38)。
第五書 書の結びの部分(第92章〜第105章、第91章 1〜10,18,19もまたここに属する)は、短いにも関わらず完全な作品である。が、かなりの量の明白な加筆語句があり、文章のある部分は配置が変更されていると事実上考えられる。これによりこの書の理解が困難なものとなっている。しかし、もし我々がここでチャールズの手引きをたどるならば、そうした困難さは消失するであろう。彼はこの結びの一篇に関して次のように述べる。「この書の最後の編集者の手にかかって、直接的な加筆と容赦ない文章の配置替えの両方によって、幾分か改ざんされている。加筆部分は:第91章 11、第93章 11〜14、第94章 7d、第96章 2である。文章の配置替えは、この書のより重要な特徴である。それらは(第106章 14の直後にあるべき第93章 13〜14、および第106章 17aの例外を除いて)第91章〜第93章の範囲に限定されている。すべての批評家たちがこれらの主要部に関して同意している。第91章 12〜17は疑いなく、第93章の直後と解釈すべきである。...第93章 1〜10、第91章 12〜17を、第91章〜第104章に組み入れられている独立した全体ー週の黙示録ーから両方取り出すと...残りの配置替えについては、謝意を示すために指摘のみ為される必要がある。他の意見では、我々は第91章〜第104章がこの書の残りの部分とは異なる著作者性の書となっている事を認める。そこで、これがその様であるならば、この部分は明らかに第92章から開始する:「書記官エノクによって書かれ、」など。第92章については、第91章 1〜10、18、19が自然な帰結として後に続き、そこでエノクは彼の子供たちを招集して彼の告別の言葉を授ける。その後に「週の黙示録」、第93章 1〜10、第91章 12〜17と続く。それ故に、文章の当初の順序は次の様であった:第92章、第91章 1〜10、18、19、第93章 1〜10、第91章 12〜17、第94章。これらの配置替えは編集者の仕業であり、エノクの異なった書を一箇所に配置し、そして第80章と第81章を付け加えたのである。」 注6
この書は、義なる者の最終的な報酬と、そして邪悪なる者の最終的な懲罰に関する疑問について関心を示す。が、非常に重要な新しい教えがここで提示されている。これまでは、義なる者の受難と邪悪なる者の繁栄に負うところの、多大なる不調和や明白な不正がこの地上で発見されたとしても、それでも尚すべての物事が来たるべき世界において是正され、そこでは邪悪なる者はその当然の報いを受け取り、そして義なる者はその真価を認められると教えられてきた。この書では、たとえこの地上にあっても、救世主の王国の立ち上がりと共に、天罰が邪悪なる者に襲いかかり、また義なる者は平安と繁栄を享受し、そして最後に、最終的な審判と共に、これまでの天と地の破壊と、そして新しい天の創造が到来するであろうと教えられる。次に義なる死者の霊魂の復活が続き、彼らは絶えず平安と喜びの内に生き、同時に邪悪なる者は永遠に消滅するであろう。重要な点は、それは進展であるが、この地上でよこしまを行う者たち、彼らの邪悪の勝利のまさにその場面に対する懲罰についての考え方である。
第六書 ノアの書の断章(第6章〜第11章、第57章 7〜第55章 2、第60章、第65章〜第69章 25、第106章、第107章) これらの断章は、さして重要ではない。触れられている主な題目は、天使たちの堕落とその結果としての人間たちの間の罪、人類に対する審判、つまり大洪水そしてノアの保護についてである。
最初の五章は概ね書全体の他の部分と同じくらいの時期のものと考えられる。それらの章は邪悪なる者たちの来世の懲罰と義なる者たちの祝福を取り扱っている。第108章は、書全体への最後の言葉の如く読み取れるが、同様な題目について触れている。
注1 : 章列挙体系がエノク書全体を通して採番されている事は非常に残念である。もし各個別の書が第一章から始まるのであるならば、それはより好ましかったであろう。明確な理由により、ここではそれが実施できていない。「編集者まえがき」を見よ。
注2 : 第82章 4〜6および第2章もまた参照せよ。
注3 : Charles, The Book of Enoch, p. 147 (1912)
注4 : Op. cit., p. 150.
注5 : パリサイ派とサドカイ派の間の相違の問題については、現執筆者の「聖書外典の書、その起源、教義、およびその内容 第7章」(1914年)を見よ。
注6 : Op. cit., p.218
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